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東北

8_01 城下町鶴岡と松ヶ丘開墾場

<致道館玄関>

2022年は、庄内藩の藩主酒井氏入部400年に当たり、城下町鶴岡で多くの催しが行われていました。春の好季節、知人たち5人で庄内藩に関わる二つの史蹟を訪ねました。

藩校致道館/江戸時代中期には、幕府ばかりか各藩も財政が悪化し、年貢の増徴をしたため、各地で農民による一揆が起こりました。そんな中、庄内藩主が越後長岡に、庄内藩には川越藩主が、川越には長岡藩主が転封(てんぽう:領地替え)という「三方領地替え」が行われることになりました。これに対して、庄内藩の領民たちが結集し、村の代表が幕府に直訴、領内では数万規模の集会を開き、「百姓たりとも二君に事(つか)えず」と転封を阻止しました。

この背景には、藩校致道館の存在があります。致道の由来は、孔子の教え「学んでもってその道に致(いた)す」から採られました。幕府の「寛政異学の禁」により、多くの藩では体制維持を眼目とする朱子学を官学としていましたが、庄内藩では荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学風を採り入れ、藩主自らも出講し、「人情に達し、時務(時と場に応じて対応する)を知る」人材の育成に当たりました。その結果、天保の大飢饉の際、他藩では多くの餓死者が出た中で、庄内藩では一人の餓死者を出さなかったと言います。

藩主を慕う領民によって領地替え阻止運動をした歴史は今も伝承され、「殿様様が暮らす町」として、藩主の末裔が住んでいることを誇りに、400年祭が行われていました。

松ヶ丘開墾場/戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟が結成された中で、最後まで新政府側に抵抗したのは、会津藩の他に長岡藩と庄内藩の3藩でした。会津や長岡は幕府軍によって城下が焦土と化した中、鶴岡藩では多くの農民も武器を取り、領内に官軍を入れることがない中で、西郷隆盛の周旋により、減封のうえ藩主謹慎という穏便な処置となりました。その結果領内で戦火を交えることなく、明治維新を迎えることができました。米沢藩では藩士ばかりでなく、領民が自ら領地を守ろうと一致団結しました。

 維新後、家禄を失った藩士は、「刀を鍬に持ち替えて」林野を切り開き、わずか5年で、300ha以上の桑畑を造成し、蚕を飼育する大蚕室10棟を築造しました。

明治維新という体制変化の激動期に当たり、藩校致道館で培われて精神が生かされ、時代が変われば人の心が変わる中、庄内藩士は心を一つにして難局を乗り切り、殖産興業の先頭に立ち、賊軍の汚名を雪(そそ)ぐことができました。武士以外の領民たちの誇りも随所に残っています。

5棟の大蚕室はは国指定史跡となり、日本遺産にも指定されています。

<松が丘農場蚕室>
<松が丘農場蚕室>

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