動物や植物との関わり
馬追虫のこと。半道(はんみち:約2キロ)離れた煙草収納所で時々映画の上映があった。雨が降った状態のフイルム(フィルムでない)は不鮮明で、時々切れることもあった。戦前制作の時代劇が巡回してきたのであろう。映画が終わり、鞍馬天狗の恐ろしい場面の余韻が冷めない中、暗い夜道を「すいっちょ」の声を聞きながら帰った。仲間に遅れないよう、自然に小走りになった。秋になり「すいっちょ」が鳴き出し、日没が早くなると、子ども心にも季節の移ろいを感じた。
すいっちょ
生活の基本 衣と食と住
食べ物が腐敗して食べられないこと。古くから使われていた言葉で、方言ではない 。ただ今では共通語としてはほとんど用いられていない。冷蔵庫のない時代、夏は食べ物が饐えてしまって、食えるかどうかは嗅覚で判断した。炊き置いた御飯を食べるときにまず臭いをかいだ。「すえくせ(饐え臭い)」かどうかを感じ取り、食える食えないの判断をした。何より自分の感覚を第一とした。「もったいないから」と、饐えない内に無理に食べさせられることがあった。今は、業者も消費者も賞味期限を厳守し、期限が切れれば食べられる物まで捨ててしまう。「すえくせ」かどうか、感覚を大事にしたい。
すえる
饐える
地域を取り巻く様々な生活
選(よ)りすぐるという共通語があるが、農家では藁(わら)を「すぐる」と言う時に使った。藁は筵(むしろ)や菰(こも)にもなり、草履(ぞうり)や蓑(みの)にもなった。さらに縄として日常生活でも不可欠であった。藁を使うためには、指の間に入れて、少しずつしごき、わらっし(ち)び(藁しべ)を除いて芯の部分だけにしていく。さらに湿して「さいつき棒」で叩いて、加工しやすく柔らかくする。「すぐる」時に手を抜いてしまうと縄も筵(むしろ)もいいものができなかった。
すぐる
選る
挨拶語 敬語 つなぐ言葉など
相手に援助の手を差しのべること。「謝りに行って助けるよ」と、友だちが同行してくれる。他にも「大変だがらやって助けるよ」など、いろいろな場面で使った。今は標準語で「一緒に行ってあげるよ」が普通になって来た。わざとらしくない気遣いを表現する良い言葉だった。
すける
〜助ける
生活の基本 衣と食と住
生寿司は学生になって食べたのが初めてであった。高校生で下宿していたから寿司屋があるのは知っていたが入ったことはない。八溝で刺身を食べる機会は、葬式の精進上げの酢蛸だけであった。子どもの頃の寿司は、酢飯を油揚げに入れた稲荷寿司か、紅色のおぼろ(そぼろのこと)と干瓢が入っている海苔巻きであった。それでも運動会などの行事がある時の寿司は特別な御馳走であった。今、生寿司に異常に関心があるのは、子どもの頃の反動であろう。
すし
寿司
感情を表すことば
素直こと。生まれや育ちの意味とは違う。樹木で真っ直ぐ育ったのは「素性な木」という。人もまた、曲がらずに素直に育つと「すじょうがいい」という。子どもの頃から「すじょうだ」と言われたことがない。逆に反抗ばかりで、「素性じゃねんだがら(素直じゃないんだから)」とはしばしば言われた。ただ、「すじょ う」な木ばかりの組み合わせでは頑丈な家が出来ない。それぞれ個性のあるものを上手に組み合わせるのが大工の腕の見せ所である。組織すべてが同じである。
すじょう
素性
動物や植物との関わり
正しくはスイバ(酸葉)である。道ばたにもたくさんあり、春先には新芽を伸ばし、食べると文字どおり酸っぱい味がする。八溝では「すっかんぼ」で、標準語では、北原白秋の「すかんぽの咲く頃」にあるように「すかんぽ」である。皮を剥いて塩を付けて食べたが、美味しいものではなかった。今は薬草として注目されている。
すっかんぼ
生活の 基本 衣と食と住
酸っぱいこと。「すっかんぼ(スイバ」は「すっけー」ことからの命名であろう。梅干しの酸っぱいとは違った味である。たくわん(沢庵)が古くなると「すっけ」くなって、子どものは受け入れられない味であった。年寄りは入れ歯に注意しながら、口の中を移動させながら食べていた。今は、食味としての「すっけー」は少なくなっている。
すっけー
子どもの世界と遊び
収穫が終え、農閑期になると保護者が学校に集まってストーブの薪作りをして、教室の窓の下に並べて乾燥させた。真冬には、上級生がストーブ当番となり、杉の葉と粗朶(そだ)を束ねた「焚き付け」を持参した。いつもより早く登校し、職員室からマッチをもらって、自分のお部屋ばかりでなく、下級生の部屋の達磨ストーブを「ふったけ(吹き炊け)」て教室を暖める。マッチを擦って、風邪で消えてしまわないように手の平で包むようにして焚き付けの杉っ葉に火を移す。30年代までは小学生も火を扱うのは当然であったし、上級生の誇りでもあった。今の若い先生方はマッチの使い方が出来ない。火を移す前に消えてしまう。
すと−ぶとうばん
ストーブ当番
動物や植物との関わり
スナサビのこと。川に沢の清水が流入する砂地に棲息していた。砂を食(は)むことからの命名という。卵を持つ産卵時期に筌(うけ)で捕って、卵とじにして食べた。川魚の中では絶品であった。ドジョウのように骨が硬いこともなく、泥臭さもない。乱獲や河川の改修によって、ほとんど捕れなくなってしまった。
すなはび
体の名称と病気やけが
脛脛(すねはぎ)が標準語。八溝では「すねっぱぎ」と促音化する。臑(すね)も脛(はぎ)も同じ部位のことで、二つの言葉を重ねた重言。「くらがったんで、すねっぱぎぶっつげじゃった(暗かったので、臑をぶつけてしまった)」と、弁慶の泣き所を撫でる。
すねっぱぎ
臑脛
農家を支える日々のなりわい
隅の訛りとして「すま」という語が古典にも出てくる。さらに当地方では、語尾に場所を表す「こ」が付いて「すまっこ」となった。学校の席替えの時は「すまっこ」になればいいと期待していたが、落ち着かない子供たちは先生の目の届く教卓の前に座らせられた。「すまっこ」は古語の味わいを持った語である。
すまっこ
隅っ処
地域を取り巻く様々な生活
冬になり、木の水分が少なくなる頃になると、炭焼きさんが村にやってくる。原木では重いが製品になれば軽くなることから、原木のある山に炭窯を築き、小屋掛けをして生活した。県北の黒田原辺りから「単身赴任」であった。炭俵も茅山で刈り取って手作りであった。椚(クヌギ)などの雑木は定期的に伐採され、きれいに整枝されて、世代交代をしていた。また、堆肥用の落ち葉さらいのため、下刈りが行われて雑木山は維持されてきた。今は山から炭窯の煙が上がることがなくなって久しい。炭窯の独特のタール匂いが懐かしい。
すみやき
炭焼き
農家を支える日々のなりわい
ずるずると引きずること。太い孟宗竹を伐って庭まで「するびって」来て、枝払いをし、必要な長さに切莉分ける。また、買ったままのズボンの裾を上げてもらえず、学校の廊下を「するびって」歩くこともある。引き摺るとは言わず、生活の中で日常的に使っていた言葉である。
するびく
擦り引く
挨拶語 敬語 つなぐ言葉など
「ん」は打ち消しの助動詞の古い使い方である。関西の「やれん」という、出来ないことを意味することと近似している。ただ、「ん」は本来動詞の未然形に付き、「わがまま言うなら食べんといいよ」と言うふうになるところだが、「する」に付く時 は「すんともいい(しなくてもいい)」というふうに未然形ではない。「とも」は、接続助詞の働きをし、「くんともいいよ(来なくても良いよ)」などと使う。「きょうは煙草熨しすんともいいよ(しなくてもいいよ)」と仕事から解放された。今でも弟から「今日はくんともいいよ(今日は来なくてもいいよ)」と電話がある。出自の難しい言葉だが、優しい響きの言葉である。
すんとも
子どもの世界と遊び
我が家は河岸段丘の崖面の上にあったから、川は屋敷の一部であった。川幅が狭いので、岸から竿を垂らす釣りはしない。水の中に入って短い竿に、川虫を付けた糸を流し上下に動かし、魚の注意を引く「ずーこんづり」が多かった。雑魚(ざこ:はや)ばかりであったが、良く釣れた。「よーぐし」(魚串)に刺して囲炉裏で焼いて晩のおかずにした。現在は交流人口の増加を目指し「ヤマメの里」として誘客を図っているので、値段の高い竿をもって大挙押し寄せてくる。ただ、地元の人は川に関心なくなってしまった。地元の人で、自分の川で金を払って釣りをしたいと思う人はいない。
ずうこんづり
感情を表すことば
「術ない」の転訛である。広辞苑には、仕方がない、切ないなどの意味が載っているが、八溝では、鬱陶しい、不快であるという限定された使い方をする。傘や合羽がなかったから、しばしば雨に濡れて「ずずない」思いをすることがあり、そのうえ、濡れてもすぐに着替えや履き替えするものもなく、体温による天然乾燥の「着干し」であった。今の子供たちは「ずずない」思いをする機会も少なくなり、又濡れればすぐに「風邪引くから」と言って親に着替えをさせてもらっている。「ずずない」という感覚を身に付ける機会が失われてしまっている。
ずずねー
術ない
子どもの世界と遊び
ただ黙るのでなく、反抗心を込めて黙るのである。「ずん黙る」ともいう。悪さをして叱られても反省の様子がなく、ふて腐っていると「何でそだにず黙ってんだ(どうしてそんなに黙ってんだ)」と、叱られた。すみませんと言えなかった。何事につけ素直でなかったのである。
ずだまる
ず黙る
子どもの世界と遊び
「ず」は接頭語で、「ず(ん)だまる(黙る)」などと同じように、意味を強める働きを持つ。いい気になっていることの「のぼせる」が強調されている。「おめー、ちょっとずのぼせてんっじゃねが(お前、少し思い上がってるんじゃないか)」と、相手に向かって言う。しかし、自分で「ずのぼせている」ことには気がつかないことが多い。
ずのぼせてる
ず上せる
子どもの世界と遊び
列の途中から割り込むこと。単に「ずるした」ともいう。こども園に勤めて初めて「横入り」という言葉を知った。子どもたちが普通に使っていた。転勤者の子女が多い園であったから、他県からの転入者から伝えられる言葉も多く、在来の栃木の言葉が駆逐されていく例も多い。子どもの頃の「ずるはいり」よりも「横はいり」の方が優しい表現ではある。
ずるはいり
子どもの世界と遊び
「くぐる」は水中に潜ることだが、「ずんぶん」は、潜る時の擬音語か、潜る様子の擬態語か。小さい川にも潜水するにふさわしい場所があり、石を抱えてどれぐらい潜っていられたかを競うこともあった。魚を獲るために潜って橋のピンヤ(橋脚)に掴まって息を凝らした。河川改修で掘り割りのようになった川には「ずんぶんくぐり」をする場所もなくなってしまった。
ずんぶんくぐり
農家を支える日々のなりわい
「ずっと」が「ずーっと」となり、さらに「ずーって」となった。時間的にも空間的にも連続していること。「ずーって雨ばーし降ってんだがら(ずっと雨ばかりふっているんだから)」と使った。
ずーって