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地域を取り巻く様々な生活

柵(しがらみ)のこと。土手の崩落を防いだり、堀を堰き止めるために杭を打ち並べ、一段ごとに交互に竹や粗朶(そだ)を掛け渡したもの。土側溝であり、コンクリートやブロックの擁壁は無かったからしばしば土手が崩落した。その都度「しがら」で崩落を防いだ。「しがら」が腐るころには草が根付き、元に戻っている。昔からの知恵であろう。「しがらみ」は堰き止めるものから発展し、比喩的に人の心に引っ掛って自由を奪うものとなった。

しがら

動物や植物との関わり

「しきみ」のことで、「しきび」と濁った。墓地に植える樹木で、果実は猛毒である。かつて土葬であったことから犬や狼に掘り返されないように動物を忌避する植物を植えた。入り口にあるヒガンバナもその1種とされる。火葬となり、土葬に必要な墓地の広さは管理が大変であり、大きくなりすぎたシキビも要らなくなった。

しきび

生活の基本 衣と食と住

シーツのこと。子どものころは蒲団に直接寝ていたが、30年代になると葬式の引き出物に白い敷布が登場した。葬式の引き出物は時代を反映しているから、その頃から家庭でも敷布を敷くようになったのであろう。さらに上掛けのカバーも葬式の引き出物になった。泊まりのお客さんが来ると折り目の付いたシーツが敷かれた。大事な接待の一つである。新しい敷布を出せるのも家のステータスであった。今でも封を切らない「敷布」が押し入れの中に入っている。

しきふ

敷布
感情を表すことば

元気がなくしょげること。マッチが「しける」といえば、湿気を帯びて使い物にならないことだが、家計が思わしくない時にも「湿気た話」になる。海から離れた山間で、「時化」は当てはまらいから、元気がない様は「湿気っている」が当てはまるであろう。

しける

湿気る
感情を表すことば

広辞苑では「固まる」とか「意地を張る」などとしている。当地方でも、必要以上に能力を人に示したいという気が生じて、気取るとか、体裁ぶるという際に使う。「たいした気してしこってんな(いい気になって気取っている)」などと使う。また、学芸会で「しこっちゃた」と、能力以上のことをしようとして失敗することもある。吹き出物が固くなって「しこる」時にも使う。

しこる(しこばる)

凝る
生活の基本 衣と食と住

お風呂につかること。暗い風呂場から早く出たいので、文字どおりカラスの行水であった。「よぐしずめ」とたしなめられる。母親に面倒を掛けるから、少しぐらい熱すぎても我慢して「しずむ」気遣いをした。

しずむ

沈む
挨拶語 敬語 つなぐ言葉など

接尾語のように「そうだんべかした」と、会話の最後に付けて、確認をしながらの疑問を投げかける時に使う。また、「そうすっぺかした(そうしようか)」と柔らかい勧誘の際にも使う。会話の中で日常的に使い、親しみのある言葉で、使う人たちの優しい心根の出ていた。今は使わなくなった。

した

地域を取り巻く様々な生活

畑作農家にとって堆肥は大切な肥料である。特に楢(なら)や椚(くぬぎ)の葉は栄養分が豊富である。楢や椚の葉だけを集めるには、篠などの下草刈りが欠かせない。さらに不要な雑木を伐倒し、熊手が使い易いように枯損枝を集めてきれいにする。農閑期の大事な仕事である。30年代までは、薪炭にするため、10数年に1度の萌芽更新をしていた。切り倒した株からは、多くのひこばえが出るが、バランスを考慮して3本から4本立ちにする。放置しておくと高木となり樹齢とともに枯死してしまう。雑木林は下刈り作業によって維持されてきた。今は燃料にも堆肥にも使われず、雑木林は「ぼさっか」になり、キノコも出ないで、イノシシの住み処になってしまった。もはや雑木山の再生は不可能である。

したがり

下刈り
挨拶語 敬語 つなぐ言葉など

「もしそうしたら」で、仮定条件を表す。また、発語として、相手の話を受けて、「したっけ、今度は俺の番かな」というように使う。今は全く使われないが、同年代の人たちとお茶のみ話の時には自然と出てくる言葉である。それだけ日常的に使っていたからであろう。

したっくれ(したっけ)

地域を取り巻く様々な生活

村に1軒だけ、役場の前に洋服の仕立屋さんがあった。洋服を着る人は少なかったが、既製服というものが普及していなかったから、田舎でも需要があったのであろう。父親の背広もこの仕立屋さんのものであった。私が就職した時の祝いに、母に贈ってもらったのもこの仕立屋さんの背広である。親子2代にわたって世話になった。今は仕立屋さんは無くなり、隣の床屋と雑貨屋もなくなってしまった。

したてや

仕立屋
地域を取り巻く様々な生活

容器から水を切ること。滴(したた)ると同じ語源か。あくを抜くための下拵えの水も「したんで」水切りをする。小学5年生ころから御飯炊きをするようになって、洗米する時に米を流さないよう、左手の小指の部分で水を「したん」で白い水が出ないまで何度も洗った。子どもでも普通にやる仕事であった。

したむ

冠婚葬祭と人々の繋がり

77歳の喜寿の祝いのこと。火吹き竹を近隣に配ることから「火吹き竹祝い」ともいう。70歳が古希と言われるほどだから、半世紀前までは77才歳は長命とされた。火吹き竹には、火の神が宿り、無病息災の御利益があったのであろう。今は77才は平均寿命より若いので、あまり貴重な年祝いとされず、「しちぼこ」の祝いもなくなってしまった。

しちぼこ

感情を表すことば

「確と」の転訛である。「しっかど戸固めろ(きちんと戸のカギをするように)」と言われる。また、「ばがなごどばーししてねで、しっかどしねと(馬鹿なことばかりしていないで、しっかり考えた行動をしないと)」と、婆ちゃんに注意される。長男の甚六はかわいい反面、跡取りとしての責任も果たすようにとの叱咤であろうが、「ひとっつもきかねでも(少しも聞かないで)」と言われたことが思い出される。

しっかど

感情を表すことば

「知ったことではない」の転訛。「そだごどかまねよ。俺らはしったこっちゃねーがら(そんなこと構わないよ。俺たちは関係ないから)」と、開き直ったりする。ずいぶん使った言葉だが、さすがに大人になってからは使わなくなり、言葉自体も死語になってしまった。

しったこっちゃね

農家を支える日々のなりわい

強く引き締めること。縄で杭(くい)を強く締め付けたりするようにすること。それとともに、人の心を引き締めることにも使う。「生意気だがらしっちめどぐべ」といって、相手に気合いを入れて、緊張感を与える。「納付までまだだがら、しっちめとがなくちゃ(煙草の納付までまだ期間があるから、支出を引き締めなくては)」と家計を引き締めることもある。幅の広いことばであった。

しっちめる

農家を支える日々のなりわい

「かっ散らかす」と同意。「しっ」は強意の接頭語。「ぶっちらかす」とも。収拾のつかないほどの散らかしようで、衣服の脱ぎっぱなしの状態などをいう。我が家は女手が多かったので、誰かが片付けてくれたので、片付ける習慣がなく、「しっちらかした」ままで育ったから、それが習い性となってしまった。

しっちらかす

動物や植物との関わり

ホオジロのこと。スズメに次いで身近にいる小鳥であり、地面に降りて生活し、篠藪など低いところに営巣するので、子どもの目線に入りやすい。冬場の餌の少ない時期に、篠藪に稲穂でおびき寄せ、「じょんこ」という罠を仕掛けた。メジロのように生きたまま捕らえるのでなく、篠のたわみを利用して首を挟むものであった。食べることはせず、ただ捉まえることが目的であった。

しっとど

子どもの世界と遊び

共通語では「しりっぱね」といい、『広辞苑』では「後ろについた泥のはね」とある。都市部はもちろん山間部でもこの語は死語となりつつある。草鞋を履き、泥道を歩く時代には「しりっぱね」は付きものだが、履き物が靴に代わり、道路が舗装されてからは尻っぱねの心配は要らなくなった。
八溝の少年たちは、昭和20年代までは足半(あしなか)か草履を履いていたが、30年代になってゴムの「万年草履」が普及してきた。亀の子草履とも言った。万年草履は藁草履よりも跳ね返りが大きかったので、「しっぱね」は背中にまで及んだ。

しっぱね

尻っぱね
動物や植物との関わり

サツマイモやキュウリなど野菜の先端部。「尻(しりっぺ」、「しっぺた」ともいった。「ぺた」は「辺」だが、「ぺじ」も同じような意味であろう。サツマはもったいないからと言われて、筋っぽい「しっぺじ」まで食べた。食べられない部分は山羊の餌になった。

しっぺじ

尻っぺじ
感情を表すことば

「しとる」は湿ることとして、広辞苑にも載っている。語尾に「ぽい」を付けることで、何となく湿り気があることになる。梅雨時になると蒲団が重くなり「しとっっぽい」状態になる。露で濡れている草の所を歩くときは「つよっぽい」と言って区別した。

しとっぽい

子どもの世界と遊び

警察に捕まること。大人が子どもを叱る時の言葉は、「そだに悪さしてっと、警察に縛られるぞ」が決まり文句であった。警察署がどこにあるのかは分からなかったが、なぜか強制力のある言葉であった。さすがに中学生になると「縛られる」は通じなくなった。

しばられる

生活の基本 衣と食と住

藁しべを入れた蒲団のこと。「しべ」は屑藁のこと。綿が手に入りぬくかった戦後しばらく、藁蒲団が使われていた。綿が入手しやすくなっても中気で寝ている老人には「しび蒲団」をつかった。燃やしてしまえばいいので、後での片付けもしやすかったのであろう。藁をさい突き棒(木槌)で叩いて柔らかくし、手の指に入れてしごきながら藁を選(すぐ)り、茎から外れた柔らかい屑藁をとる。木綿の布で包めば完成。子どものころの敷き布団は「しび蒲団」で、藁の匂いであった。蚤(のみ)や虱(しらみ)も同衾(どうきん)であった。戦後の10年ほどは綿を栽培し、綿摘みをした経験がある。今も我が家には綿の種を取る種取器が残っている。

しびぶとん

橤蒲団
感情を表すことば

収拾が付かない、手に負えないなど、困ったことになったいう時に使う。「家の孫はいだずらでしまづになんねよ」と婆ちゃんは、手に負えない状態を嘆いている。「こだに雨ばっかりじゃしまづになんねー(こんない雨ばかり降っていてはどうしようもない)」と、困ったことだと嘆くことになる。

しまづになんねー

始末にならない
感情を表すことば

『広辞苑』に、心に深く沁みるさまとあり、しんみりとまある。子どもの頃は、「しみじみ(たっぷり)お説教されっちゃった」、「今回はしみじみ(本当に))参ったぞや」というように、程度の甚だしいことに広く使った。個人の性格として、標準語的な情緒を感じ取る感受性が欠けていたのか、標準語の「しみじみ」の意味で使うことはなかった。

しみじみ

子どもの世界と遊び

女性に肌着のこと。子どものころからこの言葉は知っていたのは、女の子たちが水浴びする時に水着として身に付けていたからである。昨年の夏まではパンツだけだったのに、一夏過ぎるとシミズを着けて川に入るようになった。時々乳首を気にして肌に張り付かないようにはがしている。その後シミズを意識したのは、中学校の若い先生が板書するたびに、白いフリルの付いた下着がスカートの裾からみえた時だった。授業よりもそちらに関心が向き、仲間の話から「シミーズ」ということが分かり、女の子の水泳の「しみず」と一致した。

しみず

シミーズ
感情を表すことば

「しみたれ」の促音化したもので、方言でない。広辞苑では「けち」なこととある。文房具などの十分でないときには、お互いに貸し借りをすることも多かったが、中には「しみったれ」がいて貸してくれない。子供ばかりでなく、組内では、様々な物の貸し借りをした。そんな中で「あの家はしみったれだから」と行き来が間遠になることもあった。大人社会での飲み会の金の払いに「しみったれ」ると、人間関係が悪化するのはいつも同じである。

しみったれ

動物や植物との関わり

凍ることで、方言ではなく、古典にも出てくる。凍(しみ)大根や凍み豆腐は冬の寒さで凍らせた保存食である。反対に、冬期間「しみ」ては困る大根など野菜は土の中に埋(い)けた。特にサツマイモは保存が難しく、凍みては駄目だし、温度を上げすぎると「ソチ」て腐れが入った。冬の食べ物の保存には、積極的に凍みらせるものと、凍みないような対策をする物がある。保存法は長い年月から生まれた知恵の集積である。

しみる

凍る
動物や植物との関わり

霜で植物が傷むこと。冬の初めに大霜があって、元気だった草の葉が一気に枯れてしまうと、本格的な冬の到来を知る。春になり、勢いよく新芽が出たのに、遅霜で「しもげ」てしまうこともある。草だけでなく、元気を無くし寒そうにしている子どももまた「しもげ」ている状態である。

しもげる

霜げる
地域を取り巻く様々な生活

八溝の言葉の特徴に「や・ゆ・よ」を小さく表記する拗音が欠落するのに、左官は反対に「しゃかん」となり、さらに濁音化した。近所に「しゃがんや」さんが住んでいたので、壁を塗る人だと言うことは分かっていた。ただ、文字が分からず耳から入った言葉がすべてであるから、左官という漢字とは結びつかなかった。この他でも、訛りとしての情報が定着してしまっていたので、ふとした機会に子どもの頃に獲得した訛りが出てしまうのは一再ではなかった。

しゃがん

左官
動物や植物との関わり

サルスベリの漢名である百日紅(ひゃくにちこう)が転訛したものである。漢音のまま呼んでいることから古い言葉であろうが、音の変化が大きいので、元の意味を理解していなかった。我が家には「しゃくじっこ」の古木が墓地の四周にあり、文字どおりお盆の季節から9月いっぱい咲き続けた。百日紅は仏教とともに輸入されたもので、寺院などに植栽されたものであるから、本来は庭木にするものでなかった。今は紅ばかりでなく紫の「しゃくじっこ」が公園や個人の邸宅にも植栽されている。

しゃくじっこ

百日香
生活の基本 衣と食と住

「さしみ」に拗音が付いたもの。拗音が脱落することが多い中で、拗音が付くことばも少なくない。いまでも寿司屋に行けば「しゃしみ二人前」と注文する。店主も「今日はマグロのいいのがあってー」と勧めてくれる。「さしみ」の語頭がア段で口をはっきり開けるので、発音がしにくい。口をあまり開けないイ段が耳に慣れて、優しい感じがする。

しゃしみ

刺身
生活の基本 衣と食と住

鮭がしゃけになる音韻変化と同じで「さじ」が「しゃじ」となった。一般的には、「や・ゆ・よ」の拗音が脱落することが多いのに、「しゃじ」は反対である。子どもの頃は、煮豆を分けるときに使う程度で、個人が「しゃじ」を使うことがなかった。昭和30年半ばから、少しずつ洋風の食生活に変化し、カレーを食うようにになって、「しゃじ」を使うようになった。それに伴って、結婚式の引物も洋食器が多くなり、いつの間にかスプーンと呼ぶようになった。

しゃじ

冠婚葬祭と人々の繋がり

舎弟と書くとやくざ用語ような印象があるが、「しゃで」は日常的に使われていた。兄は「せな」で「せなさま」と尊称を付ける。「しゃでが嫁もらうごどになったよ」と長男が自分の弟について言う。「あんたげのしゃで東京にいぐんだとね(あんたの家の弟が東京に就職するんだね」と他所の家の弟にも使う。普通に使って言葉である。

しゃで

舎弟
体の名称と病気やけが

座ったままいざること。後方に移動するとは限らない。後方に下がるのは別に「あどっちゃり」と表現する。体育館で座ったまま横に移動する時は「もう少し右にしゃれ」と言われて、列ごと移動する。今は使われない。

しゃる

感情を表すことば

仕方がないという意味で、許せないほどでない。「しゃね」とも、「しゃーねー」とも言ったが、使う場面が違った。野球の試合でエラーをすると「しゃね しゃね」と短く励ましてくれる。一方で、「勉強しねでほんとにしゃーねな」と言われる。自分の言い訳に多く使った。テスト返してもらって、いつも「出来なくてもしゃあねや」と先延ばしして、次への努力につなげなかった。

しゃーね

地域を取り巻く様々な生活

農具は、農作物の違い、耕地の条件などにより地域によってには様々な変化がある。長い間にその土地にふさわしい農具が工夫されてきた。木の葉を運ぶ「木の葉っ籠」は背丈よりも高く目も粗い。軽い木の葉を1度にたくさん運ぶためであった。目の大きさは同じでも、重い煙草の葉を運ぶ籠はずっと丈が低い。冬になると竹屋が来て、竹藪の竹を伐って、庭先で何種類かの籠を編んでいった。先端部分が生き物のように躍動し、その手際の良さに見入っていた。篭屋は那須北の方から来ていたというが、正確には分からない。

しょいかご

背負い籠
地域を取り巻く様々な生活

粗朶(そだ)っ木を採りに行く際、縄だけを持って山に出掛ける。U字に置いた縄に薪を横にまとめ、縄の真ん中に首を通し、両端の縄の端を脇の下から回して引っ張る。こうすれば容易に背中に背負うことができた。背中に直接当たることはあっても、背負い梯子を背負い上げずに済む。最も単純な背負い道具で、おそらく縄文人も利用していたに違いない。後に登山の緊急搬送でほぼ同じやり方を学んだ。

しょいなわ

背負い縄
地域を取り巻く様々な生活

登山では同じ形状の「背負子」(しょいこ)を使う。語源は同じだが、当地方の「しょういばしご」は、農業用の運搬具である。背負う物と場所によって「しょいばしご」を使い分けた。茅(かや)など軽くてもがさのあるものは頭の上まで背負うための、文字どおり梯子になるようなものであった。薪や炭など荷が重く、しかも急坂を背負い下ろす時には斜面にぶつからないように短いものを用いた。休む際に、長い背負い梯子は程よい斜面でもすぐに立ち上がることができたが、短い背負い梯子は段差のある場所に下さないと、立ち上がるのに無駄な力が必要でああった。小学生の上級学年になると、「しょいばしご」で炭俵二表を道路まで背負い下した。結構な稼ぎになった。足腰が丈夫になったのも「しょいばしご」のおかげである。

しょいばしご

背負梯子
生活の基本 衣と食と住

うどんやそばを釜から引き上げる手つきの笊(ざる)のこと。今は金網で、取っ手もプラスチックや金属で出来ているが、以前は木のざくまた(枝がYの字をしている)に篠を裂いてオタマジャクシの形に取り付けたものであった。篠は皮が付いたままだったので、水切りが良かった。茹で上がって釜の中で踊っているうどんを「しょうぎ」ですくって、水の入ったな大鍋に空け、二度三度ぱんぱんと叩いてきれいに落とす。婆ちゃんの手さばきの良さが思い出される。

しょうぎ

地域を取り巻く様々な生活

家から2キロほど離れた大子街道には、戦前の鉄道省の省有バスの時代から国鉄バスになっても、常陸と下野を結ぶ常野線が通っていた。烏山線終点の烏山駅と水郡線の大子駅を結んでいた。馬頭まで行くのには、30分掛けてバス停まで歩いていった。昭和27年には家の近くに支線が伸び、「朝間」「お昼」「晩気」の一日3本が通るようになった。婆ちゃんに連れられ馬頭に行く時は「しょうゆバス」に乗って終点の「ガレジ」で降りた。どうして「醤油バス」なのかずっと分からないでいた。今は、支線の「大那地行」はもちろん、幹線の常野線も廃止され、県境までデマンドタクシーが走っている。

しょうゆばす

省有バス
冠婚葬祭と人々の繋がり

「しょっぱい」の転訛。味覚として塩辛いこととともに、人間関係でも簡単に承諾できないことに使う。味が塩辛すぎる「しょっぺな」と使う。塩が利いていないと、「甘くてだめだ」という。頼んだげど、「しょっぺな」と断わられる。「しょっぱい」顔をするのは、物事が円滑に行かないからである。味覚よりも人間関係に使うことが多かった。

しょっぺ

塩っぺ
生活の基本 衣と食と住

荒巻鮭のこと。「ねこまたぎ」と言うほど塩がたっぷり振ってあった。魚の身だけでなく、腹の中にある粗塩(あらしお:精製していない塩)が調味料として重宝された。お歳暮には縄に吊された鮭が贈られたが、鮭の数がその家の勢いであり、北側の軒下に誇らしげに下げてあった。冬場の弁当は鮭の連続であった。今では新鮮な鮭が「サーモン」という名で、寿司にもなっているいる。それでも、子どもの頃からの塩鮭が一番美味しい。

しょーびき

塩引き
体の名称と病気やけが

「や・ゆ・よ」の3文字を小さく表記する拗音の発音について、ほとんど意識していなかった。技術家庭科は「ぎじつかていか」であったし、今も免許証は「めんきしょう」である。拗音を意識しないまま育ったことは、大人になってからも大きな影響が出た。パソコンの文字変換もなかなか骨が折れる。手術の「しりつ」もその典型である。よくも、国語の教員として進学校の生徒を教えていたものだと、我ながら感心する。汗顔の至りである。

しりつ

手術
動物や植物との関わり

キノコの出る場所、「代」のこと。他人には教えないもので一子相伝である。婆ちゃんは孫を連れて山歩きもした。「よぐおぼいとけ(良く覚えておけ)」と、孫に「代(しろ)を伝えたかったのである。夏にはチタケを採ってきてうどんの出汁にし、秋にかけてはイッポンシメジやセンボンシメジなど籠いっぱいに採ってきた。雑木林が藪山になり、キノコの出る「代」もなくなった。

しろ

冠婚葬祭と人々の繋がり

身上を「しんじょう」と読めば、個人の経歴や履歴のことであり、「しんしょう」と読めば、財産や地位のことになる。「あそこはしんしょう持ちだ」と言えば土地や財産を持っている家を指した。「そうだに(そんなに)無駄遣いをしていると、しんしょうなくしっちゃうぞ」と、日ごろから注意を受けていた。長男は、先祖代々の「しんしょう」を大事に守って行くことが何より大事なことだった。ところが、中山間地では時代とともに「しんしょう」であった家屋敷、田畑や山林も荒廃し、むしろ負の遺産となっている。我が家も空き家になって久しい。「無駄な税金払って」と町育ちの家人から攻撃される。そんでもやっぱり「しんしょう」だから壊せない。

しんしょう

身上
冠婚葬祭と人々の繋がり

親戚でも遠縁のこと。山村では狭い通婚圏であったから、何代か遡れば多くが「しんせきっぱじ」になる。普段は意識していなくても、葬式になると、この家も親戚であったかと驚くこともある。長男はこの付き合いを大事にしないと不義理をしたことになるので、気遣いがたいへんである。「しんせきっぱじ」で葬式があれば、古い香典帳を開き、いくらもらっているかを確認し、今の相場と比較して額を決める。代替わりが出来ないことで、年寄りたちの負担になっている。

しんせきっぱじ

親戚っ端
生活の基本 衣と食と住

方言ではないが、ほぼ死語になった言葉。戸締まりをする時、斜めにさし渡したつっかい棒のことである。本気に入ろうとすれば外されてしまうが、多くの家では心張り棒であった。夜間は「心張り棒」を斜交いに掛け渡したが、日中外出するときに外からは施錠が出来ない。戸締まりについては関心がなかった。

しんばりぼう

心張り棒
冠婚葬祭と人々の繋がり

本宅に対して分家のこと。我が家は「しんや」であった。墓碑などから見て江戸時代には分家していたと思われるが、屋号は今でも「しんや」である。分家と本宅の関係はいつまで経っても変わらない。親戚付き合いでも中心にはなれない。気持ちの面でも「新屋」はどこか引け目がある。ただ、地域社会の大きな変化の中で、「新屋」の方はすでに空き家になり、本宅とも疎遠になってしまった。世代代わりして、交流がなくなるのもそう先のことではない。

しんや

新屋
感情を表すことば

広辞苑には「鯱張る」が語源で、意味としては「鯱のようにいかめしい構えをする」とある。八溝では拗音(や・ゆ・よの小さな表記の音)がなくなって「しっちこばる」と変化し、元の意味をそのまま残して使っている。「そんなにしっちこばってねで、ゆっくりしなせ(そんなに気を張ってないでゆっくりしなさいよ)」と遠慮している人の緊張をほどいてくれた。また、実力以上にいいところを見せようとしていつも肩肘張っていると「しっちこばる」と言われる。由緒ある言葉が当地方に残っている。

し(し)っちこばる

鯱こ張る
体の名称と病気やけが

痔のこと。便所の状況から、肛門を不潔にしておかざるを得なかったので「じかた」の人が多かった。冬の寒さ、食べ物や重労働も影響したろう。肛門が痛くなると、30年代に普及してきたオロナイン軟膏を付けた。痔ばかりか、切り傷や腫れ物などなんでもオロナイン軟膏であった。我が家の壁には、ホウロウ製の難波千恵子とオロナイン軟膏の写真の看板が残っている。山間地にまでオロナインが浸透してきたこととともに、他に選択肢がなかったのであろう。大人になって痔疾を手術したが、これは全く別な原因である。

じかた

動物や植物との関わり

ドクダミのことである。「地獄そば」の転訛で、そばの漢字は「蕎麦」と「側」がある。ドクダミは「毒矯め」とも考えられという。強い臭気がして、強い繁殖力があるり、根が地獄にまで届いているということから、地獄の名が付いたとされている。祖母は毎年初夏になると、「じごくさば」を採取し、藁で縛って軒下で乾燥させて、土瓶で煎じて飲んでいた。トウヤク(センブリ)やゲンノショウコとともに身近な薬草であった。庭に入り込まれるとたちまち繁殖して、根絶は困難であった。名前に「地獄」が付くので、何か不吉な感じはするが、花は純白で一輪挿しにふさわしい。

じごくさば

地獄蕎麦
冠婚葬祭と人々の繋がり

義理の関係でなく、血縁のある関係のこと。本来は実の子どものことを指したが、「じっしの親」などと、血縁のある親子兄弟、祖父母にも範囲を広げて使う。元の意味の「実子」が変わってしまった。山間の村では人間関係が重視されるから、誰がどこから嫁に来てなどについて関心が高く、「実子」であるか「養子」であるかはきわめて大事である。婿さんは死ぬまで婿さんであった。

じっし

実子
感情を表すことば

ひどい降雨の様子を擬音的に表現する。「じっちと降って仕事になんね」と、外での農作業は中止、雨屋での縄綯(ない)などを始める。時には「お湿り神ごと」になり、日中(ひんなか)から、一杯始まることもある。

じっちと

冠婚葬祭と人々の繋がり

大きな声を出す意味だが、単に大声でなく、怒気を表すことにも使う。農家は建坪が大きく家に中でも大声を出さないと声が届かない。まして戸外で作業している時は、「父ちゃんお昼だよ。早ぐしなせ(早くして)」と隣にも聞こえる大きな声で「じなる」。家中がいつでも「じなりっこ」している雰囲気である。今でも場の雰囲気を考えずついつい大声になってしまうことがある。

じなる

地鳴る
動物や植物との関わり

道路脇には「自然薯販売」という桃太郎旗を目にすることがある。この「じねんじょ」は本来の自然薯ではない。自然は「しぜん」とも「じねん」とも読むが、いずれも人為的に人の手が加わっていないものをいう。ところが、販売されているものは、畑で塩ビ管の中で真っ直ぐなるように育てられたもので、大変に人の手が加わり、山の藪などにあるものとは大違いである。コンニャクは1年では食べられないので、そのまま畑で冬を越し、来春に自然に芽を出してくる。手を加えず自然のままのものを自然生と言っていた。今はヤマイモのことだけが「じねんじょ」になったが、本物の「じねんじょ」ではない。

じねんじょ

自然薯(生)
冠婚葬祭と人々の繋がり

技術が至らず、他の職人からの指示で動く者のこと。茅葺き屋根を葺く茅手(かやで)は、冬になると会津の方からやってくる職能集団である。屋根の上での仕事が中心であるが、高い所で仕事には茅や竹などの材料を下から供給する者がいる。親方に言われるまま周囲を走り回り、長い竹の先に茅の束を屋根の方に差し出す「じはしり」である。能力が無くて、人の指示で動く人も「じはしり」という。ただ、「てっぺん」に上る人ばかりでは社会が成り立たない。時には、意図的に「じはしり」に徹することで、支えたり支えられたりが必要である。

じはしり

地走り
冠婚葬祭と人々の繋がり

地這え胡瓜は、支柱をしないで、地面を這うことからの命名だが、「地生え」は地元で生まれ育った人を言う。八溝の山村は、他所から来る人は嫁さんぐらいだから、地域全部が「地生え」によって構成されていた。このことは良さもあり、欠点でもあった。ただ、外部からの移入者もなく、地生えが高齢化し、過疎化に拍車が掛っている。

じばえ

地生え
農家を支える日々のなりわい

高さがなく、地面がふくれあがった程度の山。八溝の山は、標高こそ高くなかったが、幾重にも重なり、頂上に登っても、平野部は見渡せなかった。バスに乗って那珂川を越えると「じぶくれやま」になり、遠くには雪を頂いた日光や高原連山がよく見えた。子どもながらに、「開けている」という実感を持った。中学生まで、八溝の山間で過ごし、さまざまな場面で都市部の子どもたちとは大きな差があったが、一方で自然の豊かな営みの中で過ごせたことは大きな財産であった。

じぶくれやま

地脹れ山
農家を支える日々のなりわい

「地べた」に座るなど、地面という意味で広い地域で使われているが、八溝では「土地」という意味で使われていた。「木(材木)うんのに(売るのに)、じべたごし(土地ごと)売るんだ」という話がよ良くあった。30年代は材木の需要が多く、さらに薪炭が全盛であったから、「地べた」ごとよく売れた時代だった。今は一山いくらで値も付かない。

じべた

感情を表すことば

「でこぼこ」のこと。道路の凹凸が激しいのは「じゃかぼこみち」である。ヤマイモの表面も「じゃかぼこ」である。5厘のバリカン刈りであったから、頭が「じゃがぼこ」の人も目立った。不平等にという時には「でごひご」という別の言葉を使った。

じゃかぼこ

生活の基本 衣と食と住

芋洗い棒。サトイモは表面がでこぼこで、手で洗うと痒くなることがある。そこで、松の枝が輪状にバランス良くなっているものを切りそろえ、1メートルほどの長さの上の方には2本の柄を付けて、攪拌しやすくして、桶に入れたイモをかき混ぜる。何度か水を取り替えれば、黒い皮はこそげ落ちる。松の木の特長を生かした先人の知恵である。今は古くなった洗濯機で洗い流すようになり、「じゃっかじぼう」が不要となった。

じゃっかじぼう

子どもの世界と遊び

「じゃんけんぽん」の代わりが「じゃっかっき」である。同じ3拍子である点は、仲間との呼吸を合わせるのに丁度よい。「じゃんけんし」とも言った。高校生になって、ジャンケンの指の形が違ったことに気づいた。「ぐー」と「ぱー」は同じだが、「ちょき」のハサミは親指と人差し指でやっていたのである。ぐーは石、ぱーは紙、ちょきは鋏と言った。挟むのには、親指と人差し指が一番合理的であると思えるが、見栄えは人差し指と中指であったのだろう。今でもふとした時に親指の「はさみ」が出てしまう。

じゃっかっき

感情を表すことば

夕立や台風などに伴う強い雨の降り方。「ざあざあぶり」と同義。子供の頃はあまり傘を持つ習慣がなかった。家族全員分の傘はなかった。少々濡れることは厭わなかったし、「じゃっちゃかぶり」の中も走って帰ってきた。小学校上級生頃には、学校に備え置き傘が置かれるようになり、借りることが出来るようになった。

じゃっちゃが

感情を表すことば

「邪魔くさい」が相当する標準語である。「け」は、それらしい様子や雰囲気を意味する。「じゃまっけ」は「じゃまだ」という直接的な表現でなく、やや婉曲的である。「邪魔っ気だがらちょっとよげどれや(邪魔だからちょっとよけてよ)」と言う。なお、「け」は「げ」にもなり「馬鹿(ばが)げなごど」と使う。本当にばかでなく、「馬鹿みたい」とうことになる。

じゃまっけ

子どもの世界と遊び

もともと疱瘡の後遺症で頭にぶつぶつが出来ていた状態のことを言ったが、さらに虎刈りの状態のことも言う。床屋に行くようになったのは高校生になってからである。それまでは親などにバリカンで頭髪を刈ってもらった。バリカンには時々髪を噛んでしまうから、我慢ができないほどの痛みがある。さらに、丁寧さに欠けると虎刈りになる。虎刈りを「じゃんか」といった。みんなが「じゃんか」だったから、特に恥ずかしいこともなかった。耳の所に長い毛が残ったままだった。首筋を剃ると言うこともなかった。

じゃんか

冠婚葬祭と人々の繋がり

坊様が葬儀に使うシンバル状の仏具である妙鉢(みょうばち)の音が語源だと言うが、どのような経過で葬儀のような重要な儀式の意味で広く使われるようになったのだろうか。同じ町内でも「じゃんぼ」といったり、「じゃんぼー」という所もある。我が方では「じゃーぼ」と言い、葬式の時だけの付き合いである「じゃーぼ親戚」もいるし、葬儀の引物の焼き饅頭は「じゃーぼまんじょう」であった。「じゃ−ぼ」が終わるまでは人の出入りも多く、悲しみの癒されていたが、少しずつ人も少なくなり、泊まりで来ていた親戚も帰ると、家中がひっそりして寂しさが急に募ってくる。

じゃーぼ

冠婚葬祭と人々の繋がり

数え年13歳になると、茨城県東海村の村虚空蔵さんにお参りをする。5年生の春休みに学校行事でバスを借り切って参拝した。誰も海を見るのが初めてであった。虚空蔵さんは印象に残っていなかったが、本物の海を見て、ただただ驚いていたことを覚えている。波にさらわれそうで、波打ち際から離れて遠巻きに眺めていた。学校で習った社会の地図と違って、太平洋と日本海の方向が右左反対で、何とも納得できなかった。もっと早く海を見ていれば、違った人生があったのではないかと思うことがある。今でも海を見ると異常に興奮する。

じゅうさんまいり

十三参り
動物や植物との関わり

荏胡麻(えごま)のこと。食べると10年長生きするとか、10年間保存できるなどの語源がある。「じゅうね」が本当の名前だと信じていた。当時はどの家でも作っていたように思うが、手間を掛けても収量が少ないこともあって、30年代には耕作者なくなってしまった。普通の胡麻よりも濃厚で、擂り鉢で摺って味噌と和えたり、砂糖を加えて餅に付けて食べると、何とも言えない香りがした。今は健康食品として「荏胡麻油」が売れているという。復活させたい日本の味である。

じゅうね

十年
生活の基本 衣と食と住

戦後間もない小学校入学する頃は、履き物は藁草履であった。履きやすく柔らかくなった頃に破れてしまうので、よーわり(夜なべ)仕事の草履編みは親たちの大事な作業であった。その後、ゴムの短靴が短時間で普及し、やがてズック靴が普及し、戦中生まれのものが「じょうり」の最後の世代となった。

じょうり

ぞうり
農家を支える日々のなりわい

「じょしゅ」の拗音が脱落して「じょし」になった。今も乗用車でも、手助けをしなくても運転席の隣を助手席という。戦後材木特需があり、八溝杉が大量に都市部に運ばれた。道路が改良され、丸太の集積場の土場まで「いすゞトラック」が入るようになった。運転手と運転見習の助手が、鳶口を使ってうず高く丸太を積載し、製材所に運んだ。その内、助手席に座っていた助手が運転手になって大型トラックを運転して土場にやってきた。教習所がない時代どうして大型車の免許が取れたのか。ハンドルが重かったから、運転手は腰を上げながら力を入れてハンドルを切っていた。子どもたちにとってトラックの運転手は憧れの存在であった。

じょし

助手
動物や植物との関わり

シットド(ホオジロ)を捕獲するための罠。冬になるとさまざまな鳥が里に下りてくる。シットドはスズメとともに子どもたちにとって身近な小鳥であった。篠をたわませてバネとして、稲穂に誘われてやってきたホオジロの重みでバネが外れて首を絞める仕掛けであった。生き物との知恵比べであった。今はホオジロもメジロも捕獲すれば法律違反となる。

じょんこ

動物や植物との関わり

ミンミンゼミやヒグラシ、ツクツクボウシ以外のアブラゼミなどはすべて「じり」であった。色からしてアブラゼミは「赤じり」であった。植物の名前や昆虫の名前には無関心であったのは、生活に関わらないものであったからであろうし、身の周りにあり過ぎたからであろう。花は花であり、虫は虫で、細かく区別していなかった。セミ取りやトンボ取りに熱中した記憶がない。子どもたちには、実利を兼ねたもっと良い遊びがたくさんあった。

じり

子どもの世界と遊び

多くの人が通り、踏み跡がいっぱいであるという時に使った。キノコ採りに行ったら「もうじんだらで、ひとっつもないよ(ひとつもない)」ということが珍しくない。元は「地蹈鞴(じたたら)」のことであろう。蹈鞴は製鉄の際に風を送る器具で、同じところを何度も踏むことを「蹈鞴を踏む」という言葉も生まれた。そこから人が多く足跡を付けることにつながったかとも思われる。季節になると町場の人が屋敷まで入り込み、その後はジンダラになってしまっている。

じんだら

動物や植物との関わり

どんぐり。家のまわりの防風林のシラカシの実で、先が尖った小さいものは「じんだんぼ」ではあっても、子どもたちは関心を示さない。本当の「じんだんぼ」はクヌギのものであった。球状でしかも大きく、袴(はかま)も厚くてしっかりしたものであった。山に行ってポケット一杯採ってきた。時には固い殻を破って赤い芽が出ていることもあった。子どもながらに、世代更新があることを知る機会であった。

じんだんぼ

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