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言葉は地域の歴史とともに歩みます

古代か中世にかけて

 村内最下流部の南向きの狭い段丘面には縄文時代中期の住居址があり、「五斗蒔(ごとまき)遺跡」と命名されています。その他にも上流部には「重郎内(じゅうろううち)遺跡」や「大畑(おおばたけ)遺跡」の存在も知られ、古くから人々の営みがあったことがうかがわれます。中でも「五斗蒔遺跡」は東北地方に見られる複炉式住居(竪穴式住居内に二つの炉があり、那須地域が最南端である)であることが確認され、先史時代から東北南部との交流がうかがえます。弥生時代以降の遺跡は発見されていません。

 鎌倉時代には那須氏の領地でしたが、一時期宇都宮氏の所領となった時期もあり、その後、常陸佐竹氏や白河結城氏の進出があり、所属が不安定な時期もありました。隣接する茨城県大子の町域は「保内郷」と呼ばれ、中世には陸奥国に組み入れられ、棚倉などとともに「陸奥南郷」の一部になりました。このような歴史的背景により、経済的にも文化的にも東北地方南部の影響を強く受け、言葉も又大子を通して陸奥南部と繫がりが強くなったと思われます。

Ⅳ 屋敷見取り図:我が家は川の蛇行の段丘上にある。いつも川の音を聞きながらの生活
Ⅴ 家屋見取り図:約50坪ほどの建坪があり、夏は快適だが、冬は外気と同じほどの寒
栃木名木百選:樹齢350年、江戸時代に村の先人たちによって植えられたもの.JPG

<栃木名木百選:樹齢350年、江戸時代に

村の先人たちによって植えられたもの>

江戸時代から戦前まで

<大内地区はヤマメの里:サギが棲息するようになり

鳥害で魚影が薄くなってしまった>

 江戸時代には、佐竹氏の秋田転封に伴って常陸北部は武田信吉の所領となり、その後徳川御三家の水戸徳川藩が成立、そのまま馬頭地区全体が「武茂(むも)郷」として水戸藩領となり、幕末まで続きました。このため、常陸に接していた当地区は、婚姻関係も大子町や美和村(現常陸大宮市)との繋がりが多くなりました。

 明治4年の廃藩置県によりそのまま水戸県に所属したが、旧国が異なることから、明治4年には宇都宮県の所管に入り、明治6年に宇都宮県と栃木県が統合して栃木県となり、それに伴って栃木県所属になりました。明治12年、郡制の誕生により那須郡に所属し、明治22年の町村制施行に伴って大内、大那地、谷川、盛泉の江戸時代以来の旧4村が合併して大内村が誕生しました。

  さらに、昭和の大合併に際し、旧馬頭町、大山田村、武茂村との1町3村の合併で新制馬頭町になり、その後平成の合併により、平成17年に旧小川町と旧馬頭町が合併し、那珂川町が誕生、旧村はそのまま新町の大字となりました。行政の変更はあっても、大内地区は中心地から一番離れた地域であることには変わりありません。地理的にも行政的にも他地域からの影響が少なく、その結果、言葉も又独自性を保つことになりました。

O ヤマメの里大内川 我が家は河岸段丘の崖の上にあった.JPG
戦後復興

 昭和20年代の後半までは、都市部の復興需要から、国有林とともに民間林の伐採も多くなりました。新たに林道が建設され、トラックの普及と共に急速に山林の開発がされ、八溝杉が都市部に運ばれ、「山持ち」が豊かな時代になりました。一方で、米を供出することが出来るのは一部の農家に限られ、他は自家消費がせいぜいで、陸稲や粟などの雑穀を作ることで食糧の不足を補っていました。換金作物として、多くの人手を要する葉タバコやコンニャク栽培が中心で、子どもも重要な働き手でした。

 戦争帰りの世代も多く、国の施策として、戦中までは多産化が奨励され、子どもは4人から5人は普通でしたから、一戸あたりの家族は10人を超えていたのが普通でした。統計を見ると、旧大内村としては戦後10年間が最も人口、戸数とも多い時代でした。

製材所跡:子どもの頃はモーターでなく発動機が動力源であった。丸太が山積みになって

 

資料  大内中学校(大字大内 谷川 盛泉 大那地の旧大字4地区3小学校の合計)

昭和55年に大山田中学校と統合 馬頭東中となる。 さらに平成19年に廃校、馬頭中に統合)

注)中学生の数の上で特徴的なのは、22年から25年に急激に増加したことである。開校直後は、中学校が義務教育としてまだ定着しておらず、経済的な理由とあいまって中学校に通わなかった学齢の生徒がいためと見られる。昭和30年の在籍数が最も多いが、この数が当時の学齢の中学生の実数と推察される。40年から50年の10年間で約半数になったことからも、この時期に大きな社会変動があったことを裏付けている。

<製材所跡:子どもの頃はモーターでなく発動機が

動力源であった。丸太が山積みになっていたが、

今は地域の製材所は無くなった>

昭和30年代の産業構造の変化
あまや:昭和30年代に造られた煙草乾燥場、今は維持に普請している.JPG

<あまや:昭和30年代に造られた煙草乾燥場、

今は維持に腐心している>

 昭和31年鳩山内閣による「もはや戦後ではない」とする経済白書に示されたとおり、工業化の急速な発展による産業構造の変革、高度経済成長が始まろうとする時期で、若年労働者が都市部に集中し、中山間地の人口構成が大きく変わった時期でした。

その結果、旧大内村全体の人口は、昭和25年をピークに減少に転じました。 特に、葉タバコ、コンニャク、林産物に偏った地区に減少が顕著でした。 30年代から開田ブームとなりましたが、狭隘な谷間の段丘面では規模拡大は不可能でした。 また、葉タバコとコンニャク栽培は同じ作期となり、真夏に高度の集約労働力が求められため、働き手が減少したことから、葉タバコの栽培を止め、コンニャクに栽培に切り替える農家も多くなりました。 しかし、コンニャクは仲買業者による庭先取引であったことから、その年々の相場によって買い叩かれることもしばしばで、必ずしも安定した換金作物にはなりませんでした。 その後、農協主導での目揃い会などにより、品質の向上に努めたが、栽培面積は縮小の一途をたどりました。

 経済復興が進むにつれ、都市部での人口需要応じて、若年労働者が東京や宇都宮に流出するようになりました。折から高校進学率が上がりつつあった時代で、昭和35年には中学卒業の50パーセントを超えるようになり、高卒後は、その知識と技能に見合った職場を求め、地域を離れて都市部の企業に勤務する傾向が一段と増していきました。

 一方で、製造業の零細な下請け企業が人件費の安い地方への進出が旺盛となり、働き盛りの農家の長男が第二次産業の中に組み入れられ、その結果、一次産業は、じいちゃん、ばあちゃん、母ちゃんの、いわゆる「三ちゃん農業」へと進んでいきました。このため、葉タバコやコンニャクの収入では、物価上昇に見合った生活が出来なくなり、新規の就農者は急激に減り、この時期から過疎化の傾向が見られ、今日の状況が予想されていたと言えます。

 昭和36年に、池田内閣により「所得倍増計画」が発表され、10年間で国民所得が2倍になるように経済成長率7.2%の目標を掲げ、昭和37年には「新産業都市建設促進法」が公布され、宇都宮の平出工場団地や矢板市の工場団地が造成され、日本を代表する大企業が進出してきました。やがて、昭和39年のオリンピックを契機に生活の様式も変わり、自家用車による「通勤」というスタイルが定着しました。

 一方で、昭和36年に、農業と商工業の所得格差を解消するため「農業基本法」が公布され、機械化のために圃場整備など基盤整備事業が進められました。しかし、山間地までは恩恵が及ばず、格差は縮まらないばかりか、補助事業で始まった養豚やシイタケ栽培などの多角化が経営を圧迫し、離農者が増加するという皮肉な結果となってしまいました。

昭和40年代 高度成長と過疎化
シシ垣:谷あいの田んぼは休耕で荒廃したが中にはイノシシ除けをして耕作している所も

 他方で、豊富な労働力を求めて都市部から中山間地に進出してきた縫製関係、電子部品関係の企業は、農家の主婦などの働く場所を提供し、一時的には雇用に貢献しましたが、企業の外国進出などにより長続きはしませんでした。

 列島改造は、皮肉にも「地方」は交通の便のいい高速道路や鉄道沿線までの範囲となり、中山間地帯は「地方」にも入ることはなく、より便利な鉄道沿線への移住を促進させる結果となり、過疎化に拍車を掛けました。

 高度経済成長がさらに進展し、昭和47年には田中角栄内閣の提唱する「日本列島改造論」により、全国に高速道路を建設し、首都などの大都市から地方へ資本や人口を逆流させる政策が推し進められ、農家の所得を高める施策が打ち出されました。平野部では圃場整備、開田事業により、米の増産が進められ、中山間地では養蚕や養豚の振興も図られたが、外国の安い製品が輸入されると価格面で対抗できず、補助金で作られた施設も放置されてしまいました。

 農業を後押しする政策にもかかわらず、大企業の工場が進出した鉄道沿線の都市に労働力を提供することで、かえって一次産業が衰退することにつながりました。3交代制も厭わず、勤労意欲旺盛な農村の労働者は、地方に進出した自動車関係などの企業にとって不可欠な存在となりました。さらに、インフレもあって、文字どおり「所得倍増」となり、従来まで家族総出で獲得した農業所得は、一人の労働力の農外収入で十分補えることになり、その意味では「列島改造」の恩恵を受けたとも言えます。このように、一次産業から二次産業に組み入れられた農家の人たちは、長距離の通勤を余儀なくされ、勤務時間もまちまちで、3交代の勤務や休日勤務もあり、結果として地域のコミュニテーは崩壊してしまいました。

<シシ垣:谷あいの田んぼは休耕で荒廃したが中には

イノシシ除けをして耕作している所もある>

昭和から平成にかけて
八溝杉の土場:かつてはあちあった。今では伐倒したままの山もある.JPG

<八溝杉の土場:かつてはあちあった。

今では伐倒したままの山もある>

 40年から50年にかけて、高度成長期には若年層の町外移住が加速し、旧大内村の地域は一気に高齢化が進み、共同体としての機能を失い、中学校の廃校に繋がり、小学生の減少の一途をたどりました。専業農家も一気に減少し、3ちゃん農業もままならず、残された高齢者による自家消費の農業へと変わっていきました。

  このような状況下、昭和46年に「八溝地域開発」が策定されました。計画の目標の主なものは

 ①農業の近代化・林業振興・商工業の経済活動の推進

 ②社会福祉・教育文化・地域住民の健康増進を目指し、健康で文化的な生活基盤の確立

 ③交通網の整備・集落の整備等地域開発

でした。 翌47年には、上記の計画を具現化するため、住宅団地の造成、小規模の工場用地の確保などの施策により、人口増や工場誘致を図り、さらに観光施設として、町営の日帰り温泉、キャンプ場の開設、美術館を誘致するなどして、多くの交流人口を生みました。

 また、並行して道路網の整備も進められ、海と山を結ぶ国道293号の改修、新規に大規模農道として「八溝グリーンライン」も開通し、都市部との接続も改善されました。さらに補助事業として、林業の振興のための林道整備が行われ、「八溝基幹林道」が開通し、林業振興大いに期待されました。

 しかし、町の中心部から離れた旧大内地区は、狭隘な耕地で基盤整備をすることもできず、むしろ耕作放棄地が増える結果となりました。また、林道整備がなされたものの、地区内には林務従事者はほとんどなく、伐採期に入った杉や桧も手入れがされていないので、商品価値が低下し、地域格差を解消するに至りませんでした。

 その後の「ふるさと創生事業」も、再生に繫がらず、むしろ過疎化を進展させることになりました。さらに、平成になって人口減は著しく、若年層が在住しない「高齢化」が一気に進み、「限界集落」となってしまいました。

このように、戦後の大内地区の地域史を振り返ると、様々な施策にもかかわらず、村落が衰退するという日本の中山間地の典型が浮かび上がってきます。

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