【コラム】ラヂオの時代 音楽番組
子どもの頃は「ラヂオ」でした。 NHKの受信料を免れるため、徴収担当者が来るという情報があると、ラジオを押し入れに隠しました。 生活が少しずつ向上し、各家庭にラジオが普及していき、今までのNHKの歌謡番組「今週の明星」の他にも民放各局が歌謡番組に力を入れるようになりました。 「テイチクアワー」、「キングアワー」、「ビクターアワー」などレコード会社がそれぞれラジオ局と提携して競って新曲を出し、さらにはラジオドラマが全盛となり、ラジオが娯楽の中心となっていきました。
子供たちは6時には遊びを終えて帰宅し、「赤銅鈴之助」に耳を澄まし、風呂焚きをしながら主題歌「がんばれ たのむぞ僕等の仲間 赤銅鈴之助」と歌い、貧しい中にも自らを鼓舞していました。 ヒロインのゆりが吉永さゆり(当時は小百合でない)の声であったのは後で知ったことです。
大人たちは、9時を過ぎるとラジオ東京の歌謡ドラマ「遠山の金さん」を楽しみにしていまし。 主題歌は、「さて御家庭の皆様よ 一日明るく暮らすには まずは健康第一よ」と浪花節風な節回しで、当時の人にも親しみのある曲調でした。
ラジオから東京の新しい文化が発信されてきましたが、まだまだラジオの性能が悪く、民放は雑音が多く、特に雨の日には音量にむらがありました。 自分だけのラジオが欲しくて、町に行って鉱石ラジオ部品を買ってきて組み立てましたが、うまく聞こえませんでした。
30年代になって「オンキョースーパー5球」という真空管が5本というラジオが出ると、格段に性能が良くなり、文化放送も聞こえるようになりました。 この頃は、歌番組がさらに盛んになりました。
手元に、27年発行の芸能雑誌『明星』(与謝野鉄幹の明星とは関係ない)の付録として付いてきた「歌の明星第二集」と、昭和32年発行の『平凡』の付録「オール歌謡曲」、34年発行の『平凡』の付録「歌のプレゼント」があります。 同居していた「若い衆(わかいし)」が町の本屋で買い求めたものです。 裏表紙には名前が書いてありますから、大事な物だったのでしょう。 表紙を飾っているのは、ギターを持った春日八郎のマドロス姿であり、歌謡曲ばかりでなく、耳に新しいジャズやマンボが混在していた時代でした。
27年に始まった「三越ホーム・ソング」は家族みんなで歌える番組で、歌謡曲が農村社会にも浸透するきっかけとなりました。 また、ラジオドラマでは東京の家庭生活が舞台の「オヤカマ氏とオイソガ氏」が放送され、東京文化の最先端の様子が茶の間に流れ、夕食時には家族揃ってラジオに聞き入っていました。 日ごろ歌うことのなかった母が、島倉千代子の「りんどう峠」の「りんりんりんどうは濃紫(こむらさき)」を口ずさんでいたことを今も鮮明に思い出されます。
30年代半ばまでは、まだラジオ中心の時代でした。 栃木県出身の船村徹作曲で島倉千恵子の歌う「東京だよおっ母さん」が現実の世界で、上京した母親を皇居に案内し、さらに戦死した息子が祀られている靖国神社に参拝、最後は、毎日が祭りのような浅草に行って、その夜はどこか安宿に泊まって一晩語り明かしたのでしょう、やっと親孝行が出来た安堵が国民の共有の感情であった時代でした。 同じく船村徹作曲の「別れの一本杉」や「柿の木坂の家」も、広く国民歌として共感を呼んだのは、集団就職で農村部の若者たちが都市部に集中する時代と合致していたからです。 夏休みには、昼食が終わると、NHKの「昼の憩い」を聞きながら、農作業の手伝いの疲れで、縁側で昼寝をしました。 音楽とともに、全国の通信員からのお知らせが楽しみでした。
<オンキョー スーパー5球ラジオ
今もインテリアとして残っている>
小学生の高学年になった時、馬頭商工会主催の歌謡ショウに祖母と馬頭高校の体育館に出掛けました。当時は県立高校の体育館が一番大きなホールだったのでしょう。買い物をするたびにもらうシールを貼って入場券と交換したものです。シートの上に座り、「踊り子」で人気絶頂の三浦洸一ともう1人女性の歌手の共演に圧倒され、小説『伊豆の踊子』の存在は全く分からなかったし、歌詞にある「アマギ峠」がどこにあるのかも分かりませんでしたが、きらびやかな衣装の歌手を見て「これが本物か」と圧倒された印象が今も残っています。
その後、30年代半ばには白黒テレビが普及し出しました。三方を山に囲まれて電波が入りにくいことからテレビ普及が最も遅れた地域でしたが、父親が新しいものが好きであったことから、集落では一番早くテレビが入り、毎晩映画館のように人が集まってきました。4本足の「エルマン」社のテレビに映し出される力道山の空手チョップ、敵対するキングコングやダラシンのヘッドロックなどに日本中が酔いしれていた時でした。何か分からない高揚感が日本全体に高まり、農村でも、これから良いことが起きるのではないかと誰もが期待していた時代でした。
テレビが普及するに従って、雑誌『平凡』や『明星』もファッション化し、歌本の付録もなくなりました。「ラヂオ」は不要になると思っていた時代です。「もはや戦後ではない」ことが実証された変化です。この時期から日本は大きく変わりました。
<歌本 昭和20年代後半か30年初頭>