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地域を取り巻く様々な生活

堆肥を入れて、脇に抱える竹の笊(ざる)。堆肥は重いので、「たがら」で背負って畑まで運び、抱えられる大きさの竹の「肥ひご」に分けて作物の根もとに振りかける。紐を付けて肩に掛けたりもした。「こいひご」とは言え、様々な用途があり、ジャガイモなどの収穫に便利な大きさであった。肥は「こえ」と「こい」中間の発音で、多くの場合「エ」は大きく口を開けなかったから、「い」との区別がないことが多い。

こい(え)ひご

肥ひご
地域を取り巻く様々な生活

地域の後継者の中で、高校の農業科を卒業した若くて意欲のある長男は、機械の導入にも積極的であった。トーハツの発動機を導入し、足踏みの「がーこん」から発動機による脱穀機へと代わっていった。さらに芝浦の耕耘機が普及し、畑の耕耘はもちろん、トレーラーを連結して堆肥を運び、畑からは収穫物を庭先に運んだ。耕耘機が導入されると農道が改修され、圃場の整備も進み、一気に機械化が進んだ。兼業農家であった我が家は、ついに耕耘機は導入されないままに、家の周囲だけを耕す庭先農家になってしまった。ただ、その頃から半世紀で、兼業農家さえもなくなり、八溝の農村は一気に変貌した。今は耕耘機の代りに、管理機と言われる「こまめちゃん」を使い、庭先を耕している。

こううんき

耕耘機
生活の基本 衣と食と住

広辞苑では「香香」と表記され、漬け物、「こうこ」とある。こうこが濁り、「こうご」となり、さらに丁寧な「お」を付けて「おごーご」と濁った。沢庵も「たくわんこーご」である。「お新香」というと、小皿に丁寧に盛りつけされたものの感じが強く、「おごご」と言えば大皿にざっくりと切られた白菜の漬け物などを連想する。御飯を海苔巻きのようにして食べた白菜の真ん中の黄色い部分は甘くて美味しかった。古くなって酸っぱくなった「おごご」は油で炒めて食べた。無駄にはしなかった。

こうご(おごご)

お香香
感情を表すことば

「こうしゃく」は講釈から転じて、難しいことをしゃべる、さらには余計なおしゃべりのこととなった。「こうしゃぐばがしかだってねで、ごっことしごどしたらがんべ(余計なおしゃべりをしてないで、さっさと仕事したらどうだ)」と言われる。「講釈」は江戸期の言葉であるから、江戸から八溝に入り、どのように定着したのであろうか。八溝地域と江戸との結びつきも気になる言葉である。

こうしゃく

講釈
地域を取り巻く様々な生活

「こうぞ」の転訛で楮のこと。田畑の少ない山間の地では、土手もまた生活費を生み出す場所であった。河岸段丘の急斜面にはこうず(こうぞ)を植えて、農閑期の冬の余業とした。楮は桑と同じく、根刈りしても翌年にはまた株から同じように芽を吹き出した。煙草の納付を終えた12月になると楮を根元から切って、押し切りで長さを揃えて、大きな釜に入れて茹でる。釜の上にも蒸気を逃がさないように鍋のようなものを乗せた。茹で上がると、樹皮を剥ぎ取り、水に漬けて柔らかくしたところで、一番上の黒い表皮を刃物で剥いでいく。「表皮取り」である。白い部分だけになった紙の原料は仲買人によって烏山に運ばれ、「烏山和紙」となった。紙漉の苦労は知られているが、その土台には山間の婆ちゃんたちの知恵と汗の結晶があった。

こうず

地域を取り巻く様々な生活

屈むこと。山間の畑作ではこう曲がっての作業が多く、特に傾斜地では腐葉土が下に流れないように上から下を向いて鍬で「さくりあげる」作業もある。その際はいっそう「こう曲がる」ことになる。山間地の年寄りの中には腰が「こう曲がって」いる人が多かった。今は畑は耕作放棄地となり、こう曲がる作業が無くなり、腰のこう曲がった人も少なくなった。

こうまがる

こう曲がる
地域を取り巻く様々な生活

馬屋から馬の糞尿の混じった藁を戸外の堆肥貯めに出すこと。葉煙草農家では、大量の肥料が必要であった。中でも、根張りを良くするため、土地を柔らかく保つ木の葉の類の堆肥と厩肥は不可欠であった。馬は、馬耕などの労役に使うだけでなく、厩肥を作る役割があった。しかし、同じ家の中にいることから、「肥出し」をしないと臭いがひどくなり、特に夏場は家中に馬小屋の臭いが充満した。

こえだし

肥出し
生活の基本 衣と食と住

板の間や座敷に続く幅の狭い、板敷きの縁のこと。縁側と言えば外部と建物の境をなす外縁を言うが、小縁は室内にあり、30センチほどと幅が狭く、腰を下ろして休んだり、一時的に道具や野良着を置くことに使う。新しい家には「小縁」が作られなくなったので、言葉も不要になってしまった。

こえん

小縁
生活の基本 衣と食と住

標準語では「粉を吹く」というが、八溝では「粉が吹く」という。干し芋や干し柿の表面に糖分が白く吹き出てくることである。正月に合わせ、干していたものを取り込んで、煎餅缶に入れておくと、真っ白に粉が吹いた。甘い物に飢えていたから、「粉が吹いて」固い干し芋を囲炉裏で炙って食べるのが楽しみであった。

こがふく

粉が吹く
感情を表すことば

接頭語「こ」があるからと言って、汚さが減少する訳ではない。整理整頓が出来ていないことや身なりにも使うし、心の有り様にも使う。衣類は綿が多かったから、洗うと縮まってしまうので、「こきたなく」なるまで着ていた。衣類はまだ許せるが、「金にこきたないんだから」といわれ、誰もが出すべき時に出さないのは人格と関わり、「意地汚い」ことになってしまう。

こきたねー

地域を取り巻く様々な生活

物を小さく切ることで、藁を「こぎって」飼い葉にして馬に与えたし、木の枝もほどよい長さに「こぎって」薪にした。農家では既製品を買うことを減らすため、自らの手で加工し、保存しながら利用した。「こぎる」作業は日常的なことであった。一方で、農作業でなく、値引きを求めることを「こぎる」と言った。町に行って、お店で「もうすこしまけどこれ(もう少し安くしてください)」と「こぎる」交渉をしたが、山間の農家は情報量も少なく、「こぎった」としてもたかが知れたもので、商店では織り込み済みの「正札」をつけていたことであろう。

こぎる

小切る
感情を表すことば

「虚仮」が語源で、もともとは仏教用語で、考えが浅はかであるとか、内心と行動が違ったりすることの意味である。「ぽ」は「坊」のことで、子どもを卑しめたり親しみを込める言葉。いつまでも寝足りずぐずぐずしている「ねごんぼ」というのと同じ。「馬鹿」や「虚仮」は、日ごろからしばしば使われていたから、あまり気になる言葉ではなかった。

こげっぽ

動物や植物との関わり

魚の鱗(うろこ)のこと。「こけら」が濁音化した。広く東北南部から関東一円に使われている。柿落(こけらおとし)の「こけら」とは違うが、形状が似ていることから、どちらも「こけら」と言ったのであろう。川にいる魚のカジカやスナサビには「こげら」はないが、鯉の仲間には「こげら」があった。

こげら

冠婚葬祭と人々の繋がり

どの家も漏れなくという意味。「家ごめ」ともいう。組内ではなにごとにつけ連帯感が重視されたから、共同作業の時には抜けることができない。出られない時には手間賃相当の「割金」を出さなければならなかった。男手でないとダメな時には、父親が日直があって出られなかったこともあったので、中学生の時には一人前として、道普請にも出ることになった。大人よりは真面目にしっかり働いたので非常に疲れた。次第に、大人の仕事ぶりを見て、要領よく休みながらやることを覚えた。

こごめ

戸籠め
農家を支える日々のなりわい

「煮凝り」のように凝固することであるが、八溝では、凝固する程でなく、1か所に集まっていることにも使う。「ふかんぼにざごめ(深みに雑魚)がこごっているぞ(あつまっているぞ)」と言って石をぶん投げて浅瀬に追い立てる。体育の時に、先生に「ほら、そごんとここごっていねで(そこのところ固まっていないで)」と声が掛った。普通に使っていた言葉である。

こごる

凝る
地域を取り巻く様々な生活

畑や道路に張り出してきた枝を「木障(こさ)」と言う。日照時間が少なくなるので作物の収穫に影響するから「木障切り」は山間の農家では毎年の仕事であった。畑の隣の山際の樹木は光を求めて畑の方にどんどん枝を伸ばしてくる。毎年の大事な作業である。今は、耕作放棄地が多くなり、畑は「こさ」でなく、林や篠藪になりイノシシの格好の隠れ場所になっている。道路も道普請で集落全体が「木障切り」をしていたが、共同の作業をしなくなったので、道路まで木が覆い被さってしまっている。

こさぎり

木障切り
農家を支える日々のなりわい

「拵える」の転訛。工作物だけでなく広汎な意味で作り上げることに使われる。料理も「こしゃう」し、借金も「こしゃう」という。子どもたちも、日常の遊びの中で様々なものを「こしゃえた」。そのことが大人になって大いに役立った。

こしゃえる(こしゃう)

生活の基本 衣と食と住

ネギ味噌をお湯で溶いただけの味噌汁。今で言うインスタント食品である。人を卑しめる「乞食」が付いていることから、粗末な食べ物のことであろう。かつぶし(鰹節)が入っていれば最高の味で、時には少量の砂糖も入れた。風邪気味の時はいつも飲まされたので、今でも喉が痛くなると作ってもらって飲んでいる。

こじきじる

乞食汁
感情を表すことば

ひねくれることで、問題が「こじぐれる」とは使わなかった。特に気に入らずふてくされると「まだこじぐれで(またふてくされて)」と追い打ちを掛けられた。なにごとにつけ直ぐに「こじぐれる」質であったから、親も扱いにくかったろう。「こじれる」は標準語。

こじぐれる

生活の基本 衣と食と住

主食の間に摂る食事。日の長い農繁期は、朝飯前に秣(まぐさ)を刈り、早い朝食を済ませると畑や田んぼに出かけた。力仕事をする人たちにとって、ただお茶菓子程度では済まない。こみっちり食べてしっかど(しっかり)働かなくてはならない。そうかと言って家まで戻っては時間の無駄にもなるので「こじはん」持参で田畑に出掛けた。特に午後の三時頃に食べるものを「こじはん」と言っていた。
なお、時計などもっていない時期には、サイレンが大きな役割をしている。合併前の馬頭では昼のサイレンは11時30分に鳴った。お昼のサイレンが鳴ってヤマ(畑)から帰ってくるとちょうど12時頃になる。合併後は12時に、今風のチャイムが鳴る。平場の農家は、チャイムが鳴れば軽トラですぐ戻れる。「こじはん」という言葉もなくなり、合併により、山間の地はまた大きく変わった。

こじはん

小中飯・小昼飯
農家を支える日々のなりわい

粉砕したり潰(つぶ)したりすることすること。ニワトリの餌に貝殻を「こじゃし」て混ぜて、固い殻の卵を産ませた。煮た小豆を「こじゃし」てあんこを作った。最近の「こじゃれた」とう語と基本的に通じているのではないかと思う。固いところがなく、年齢不相応に気の付くことやお洒落をしていることで、時にはマイナスの評価にもなる。

こじゃす

動物や植物との関わり

雌のニワトリが抱卵期に入ること。納屋の軒下に鶏小屋を作り雄鳥(おんどり)1羽と雌鳥(めんどり)数羽を飼っていた。日中は外での放し飼いにして、夕方になると小屋に戻るようにしつけておいた。オスはしばしば辺り構わずメスの背中に乗り交尾をしていた。ところが、メスの鳴き声が変わり、羽を下げるようにして歩き出し、オスを受け付けなくなり、卵も産まなくなる。「こじった」のである。食べずに残しておいた有精卵数個を箱に入れておくと抱卵が始まる。21日経つとひなが誕生する。やがて、ひなが親鳥について庭に出て遊ぶようになる。成長しても卵を産まないオスの雛はどうしたのだろうか。

こじる

感情を表すことば

「ずるい」という意味だが、単なるずるさでなく、少しでも自分利益になるよう画策することに使う。特に耕地の少ない山間地では畑と畑の地境については、一鍬一鍬ずつへずっていく人もいる。そんな時に、「あそこの家はこすいんだから」と言った。多くの人はお人好しで、周囲に気遣いをしながら生活していたから、組内に一人でも「こすい」人がいると、かえってぎくしゃくすることも多かった。「こすい」よりも「こすっからい」となるとよりたちが悪くなる。

こすい(こすっけー)

狡い
生活の基本 衣と食と住

食感がなめらかでないこと。味の問題ではない。喉を通るときに、すっきりしない感触である。団子にする米粉が挽き足りないと米粒が粗く、ざらざらとした「こそっぱい」ものになってしまう。自家製であったから、今のスーパーに並んでる物と違って、「こそっぱい」物が多く、しばしば使った言葉だが、生活の変化とともに、死語になりつつある。

こそっぺー

感情を表すことば

不足しているが、語頭に「こ」が付くことによって、軟らかい婉曲な表現にする。やや足りないのである。飲み会の後、「一軒じゃこったんねから」といって梯子酒になる。足りるかどうかは人によって違う。十分でなく、物足りないのである。人に対しても「あんては(あの人は)ちょとこったんね」といえば、思慮が不足して、気が回らない人のことを指す。

こったんね

こっ足んね
農家を支える日々のなりわい

「おおさむこさむ(大寒:小寒)」と歌われる童謡の歌詞にある「小寒」はどういう意味か。冬の早朝の寒さは「こっつぁむい」とは言わない。本格的に寒いから「さみー」である。日中になっても日が照らず寒い時には「こっつぁむい」のである。接頭語「こ」には、「それとなく」という意味があり、「おおさみー」に対して「こっつぁみー」があるのであろう。

こっつぁむい

こっ寒い
感情を表すことば

徹底的にやることで、標準語では「こてんぱん」である。ぱーぶち(めんこ)をやって「こでんっぱにやられっちゃった」といって、すっかり手持ちがなくなり、気落ちするほどやられたのである。たとえ遊びであっても意地があり、「こてんっぱ」にやったりやり返すのが仁義であった。

こっでんぱ

感情を表すことば

恥ずかしいに接頭語「こ」が付いたもの。同じ恥ずかしいのでも、後まで残るようなものでなく、その場で少々照れが入る心理状態。「前で歌えや」と言われると、「こっぱずかしくてでぎねよ」と遠慮してみる。本心とは違う。だから、さらに勧められれば「ほんじゃ」といってマイクを握って、人の何倍も歌い続ける。

こっぱずかしー

こっ恥ずかしい
生活の基本 衣と食と住

農家は草屋根(藁屋根)が多かったが、非農家の中には「杉っ皮屋根」や、「木っ端屋根」の家もあった。杉の材木を薄く剥いで、一定の長さと幅の「木っ端」を重ねて屋根材にした。林業が盛んな八溝で「木っ端」の材料はいくらでもあったが、草屋根よりも高価であったから普及しなかった。今は草屋根も木っ端屋根もなくなり、銀色のトタンの屋根に代わった。

こっぱやね

木っ端屋根

年齢の割には生意気なこと。「こっぺ」は県外でも広く使われていることから、古くから用いられている言葉であると思われる。江戸の言葉が広く伝播したもので、八溝では遅くまで残ってれいた。「小せくせして、こっぺくせい(小さいのに生意気な口を利く)」と、子どもが年齢に比して大人びていることで、いい意味では用いない。

こっぺくせー

感情を表すことば

「取るに足りない」などの「つまらない」に接頭語「こ」が付くことで、意味が強められる。「そだこづまんねごと言って」(そんな馬鹿なことを言って)となる。心情的にも、「こづまんー野郎(やろ)だな」と気にくわないときに使う。本来「こ」は軟らかく表現することに使うが、実際には「こずるい」などという時は、むしろ嫌悪感が強くなる。

こづまんねー

感情を表すことば

語頭の「こ」は強意の接頭語で、少しばかりではない。「こでっちり食っとごれや」と言われれば、腹一杯どころか、口っきりお呼ばれすることになる。「こみっちり」とほぼ同意で、十分にという意味である。時には悪さをして、「こでっちりお説教(せっきょ)食っちゃった」と、十分であっても、うれしくないことである。

こでっちり

感情を表すことば

堪らないほど良いという意味で、自分にとって都合の良い場合にだけ使う。「おまんじ(お饅頭)うまがったかや(おまんじゅううまかったかい)」と聞けば、「腹減っていだがら、こでらんねがったよ(腹が減っていたから、堪らないほどおいしかった)」と返事する。さまざまな場面で使い、「パチンコがよく出でこでらんね」と、いつもと違ってよく出たことになる。出ない時のことはすっかり忘れている。

こでらんね

堪えられね
冠婚葬祭と人々の繋がり

大事な日の意味で、神事(かみごと)とも言い、農作業を休む日であった。お念仏の日には女衆はお堂に集まって大きな数珠を回しながら念仏を唱え、終われば持ち寄ったお煮染めなどでお茶を飲む。同席していた子どもでも「オーナボーキャ」と、念仏を覚えた。御詠歌の詞章を知らない若い嫁様は気詰まりのことであったろう。神事だけでなく、時には雨が降ると「雨っぷり神事」といって農作業を休むこともあった。厳しい労働の日々の中で、一人だけ休むには気が引けるが、みんなで休める日は心も安まった。今は勤務先の都合で休むので、「こと日」がなくなった。

ことび

事日
地域を取り巻く様々な生活

広辞苑には、「砕いてこまかくする、食物を消化する、自由に扱う、仕事を済ます」などと載っている。当地方で「こなす」といえば、収穫の最後の作業をいう。軒下の並べておいた小豆を筵(むしろ)に並べ、くるり棒で叩いて豆を莢(さや)からはぜさせたるするようにするのは、小豆を「こなす」という。これで農作業すべてが終わる。広辞苑の中にある「仕事を済ます」ということと、八溝の「こなす」が通じる。日常生活でも世渡りが上手な人は世事を器用に「こなす」ことが出来るのである。

こなす

熟す
生活の基本 衣と食と住

精米の時に出る粳(うるち)の屑米を、石臼(いすす)で挽いて粉にし、蒸かして餅にする。熨し板で平にしたりせず、半楕円形の棒状にした。砂糖醤油を付けたりあんころ餅にすると、普通の餅とは違った食感であった。豆餅と同じく、半楕円形にするのは糊気が少ないので、割れてしまうのを防ぐためであろう。時間が経つと粘りがなくなり、極端に味が落ちた。

こなもち

粉餅
感情を表すことば

「こねぐりまーす」ともいう。粉は「こねる」で「こねぐろ」とは言わない。良い意味では使わない。屁理屈を言ったりすると、「屁理屈こねぐりまーしてんじゃねーよ(余計なことをあれこれ言ってんじゃない)」とたしなめられる。子どもの頃から、何かに付け「つっかえし」が多く、言い訳を「こねぐって」いたから、親も先生も厄介だったろう。今頃になって気づいている。

こねぐる

捏ねぐる
生活の基本 衣と食と住

「こはぜ」のこと。足袋から靴下にはいつから替わったか。20年代の小学生の頃は足袋であった。少し大きめのサイズを買ったが、何度も洗濯している内に縮んで、「こはじ」を受ける糸が2列あってサイズ調整ができたが、それでもダメになって、ついには「こはじ」が折り返せなくなる。今では足袋が和装の時か一部の職人の人だけの履き物となってしまった。足袋のお陰で、親指が分かれていることから、指の力は鍛えられた。

こはじ

生活の基本 衣と食と住

山間の八溝地区で「こぶ」を使うことはほとんど無かったから、祭りの昆布巻(こぶまき)が御馳走であった。八溝地区は、北前船の日本海から離れ、太平洋からも離れていたので、日本の中でも昆布文化が最も浸透しなかった地方と言える。さらに、煙草の耕作で金肥として茨城や千葉の浜から干鰯(ほしか)が移入されたことから、出汁も鰯であった。そんな中、弁当のおかずに黒く光った「きゃらこぶ」が入れば珍しいことで、こぶを除けた後に米に黒くしみ込んだ部分からまず食べた。今でも、昆布には執着し、熱い御飯に塩昆布を混ぜて食うのが大好きである。なお、八溝言葉では、一般的には語中に「ん」が入ることが多いが、「こんぶ」は逆に「ん」が脱落している。

こぶ

昆布
感情を表すことば

意味は標準語の細かいと変わらず、物が小さいこと、心配りが細やかなこと、さらには悪い意味で計算高い、けちの意味でも使われた。葬儀の帳場がなかなか終わらず、精進揚げができないでいると、班長から「そだこまっけごとはいいよ(そんなに細かいことはいいよ)」と急かされる。また、組付き合いの中で「あんてはまずこまっけんだから(あいつはじつに細かくてけちだから)」と言われる人がいる。「細っけ」のも程度の問題で、時には意図的に大ざっぱ風に見せるのも人付き合いで大切である。

こまっけ

細っけ
子どもの世界と遊び

「こまっしゃくれる」が標準語。年齢よりも大人びたこと行動をすることの意。子どもの頃から、何かとちょべちょべ(必要以上におしゃべりで、周囲に取り入ったりする)していたから、大人から見たら「こまったくれて」いたに違いない。その分、着実な努力を怠ったから大成しなかった。

こまっちゃぐれ

感情を表すことば

標準語「みっちり」に接頭語「こ」が付いたもの。「今日は運動会だがら、こみっちり食ってげ」と腹一杯食べることになる。また、「悪いことしたんだから、こみっちり掃除してもらうがら」と先生の罰を受ける。「しっかりと」などよりもずっと重い意味を持つ。

こみっちり

地域を取り巻く様々な生活

方言ではない。日ごろは洗濯物も「込む」と言うことで使ってるが、農家では、葉煙草に最も気遣いをした。入道雲が出てきて遠雷が聞こえたりすれば、水遊びから急いで家に帰り、庭中に広げておいた「地干し」の煙草を乾燥場(かんそば)に込んでいったり、はってに掛けておいた連干しの縄を1か所に集めて菰(こも)を被せた。小学生も貴重な労働力であった。「込む」と言えば煙草が連想される。

こむ

込む
農家を支える日々のなりわい

「こよみ」が「こゆみ」と転訛した。銀行からもらうカレンダーは1枚に12か月分印刷されているものであり、お店からもらう暦(こゆみ)は1か月1枚のもので、旧暦はもちろん六曜の仏滅などの他に、農事についての諸行事も記載されているものである。この他に神宮暦やお寺からの冊子もあった。商店名の入った「こゆみ」は、来客から見える鴨居に並べて吊した。暦の数はお付き合いしているお店の数であり、社会的なステータスとも言えたから、来客に見えるところに掛けた。

こゆみ

感情を表すことば

「これだけ」の意味。お菓子をもらっても量が少ないと「なんだこれっぱかしげ」と不満を言う。少ないことでも客観的に少ないのでなく、気持ち的に少なすぎることが含まれる。「これっぱかし、なんちゃねー」(これぐらい、なんということはない)と頼まれ仕事を引き受ける。今は使われない言葉となった。

これっぱかし

農家を支える日々のなりわい

単に転ぶことでなく、予期せぬ時に転んだり、自然に転げている時に使う。「ころばす」は他動詞で、丸太を転ばすなどという標準語である。「じでんしゃ(自転車)で転ばちゃった」は「転んじゃった」よりも偶発性が高く、ひどく転んだ感じがする。

ころばる

感情を表すことば

長寿の亀の甲羅が年を経ているという意味で、経験があって腕がいいとか知恵があることなどに使う。「まさか(さすが)ころひいている人は違うね」などと使う。一方で、褒め言葉でなく、経験から悪知恵を身に付けた人も「ころひいている人」になる。出自は奥深く、意味する内容も趣がある。

ころひく

甲羅を経る
体の名称と病気やけが

共通語の「怖い」ではない。「ああこわい」と、びっくりすることもなく、ゆっくりとした口調で言うと、他県の人に怪訝に思われることがある。「こわい」は古典に多出する言葉で、強飯(こわめし)の「こわ」も同じ意味で、「固い」と言う意味である。さらに「思い通りにいかない」とか、「骨が折れる」と言う意味にも使われた。当地方の「こわい」は古典的意味をそのまま残して、疲れると言う意味で使う。語頭に「おそ」をつけて「おそっこわい」と言うこともある。さらに、生計が苦しくなると「こわく」なる。

こわい

強い
冠婚葬祭と人々の繋がり

お金を崩すこと。手元に小銭を持っている家は多くなかったから、学校の集金で小銭が必要な時には、1キロ離れた店まで行って両替をしなくてはならなかった。そのまま「こわし」てもらうのは気が引けるから、ほんの少しの物を買ってお釣りをもらう。いつも現金を持っているお店はいいなと、羨ましく思った。お金を「こわし」に行っていた店もなくなってしまった。今でもお店の跡にはホウロウ看板の「盬売捌所(しおうりさばきじょ)と書かれたものが掲げられている。今は標準語で「くずす」という。いずれも形をなくすことに由来する。

こわす

感情を表すことば

固いこと。特に食い物の中でも御飯が固いこと。芋は「かでくてくえねよ(固くて食えないよ)」といって、「こわっちー」とは言わない。入れ歯で御飯が固くて食いにくかった爺ちゃんが「こわっちくてとでも食えたもんじゃねよ」とよめごと(世迷い言)を言う。今は自分がその立場になった。

こわっちー

強い
農家を支える日々のなりわい

今度の転。「こんだ、まだしたら勘弁しねがら」と叱られる。「この次」の意味である。また、「こんだ来た先生は、東京の学校出だんだと」と、村中が話題にするのは「このたび」の意味である。「こんだ」にも、時間の差がある。

こんだ

今度
感情を表すことば

他人に対して、さらには犬猫や家畜への罵りに使うとともに、自分へのいらだちの際にも使う。人に対してはあまりに決定的な言葉なので余程でないと使わない。飼っているヤギが子どもだと思って馬鹿にして角を突っかけてと、「こんちくしょーめ」と言って、思い切り蹴飛ばしてやる。いっぽうで、遊びの中で、しくじると「こんちきしょー、頭(あだま)に来っちゃーな」と、間違えたいらだちを自分に向けることもある。

こんちきしょう

この畜生
農家を支える日々のなりわい

「ここのところ」の意味。「切り」は「これっきり」などのように限定する感覚はなく、長い時間のスパーンである。「こんどっきり具合(ぐわぇー)悪(わ)りんだよ」と、ここしばらく体調が良くないことを表現している。比較的緩やかな時間である。

こんどっきり

今度切り
感情を表すことば

御器は飯を盛る蓋付き器のことで、そこから単に飯椀そのものを指すようになった。さらに器を持って飯をもらう人となり、乞食を指すようになったという。「馬鹿たれ」などと同様「たれ」を付けて蔑みの言葉となった。「ごきたれやろ」と叱られたが、怒気ばかりでなく軽蔑の気持ちも合わせ持っている。ゴキブリの御器も語源は同じである。

ごきたれ

御器たれ
冠婚葬祭と人々の繋がり

「ざんばらい」ともいう。組内の葬儀の精進揚げなど、寄り合いで、当家の都合も考えずいつまでも飲食をして席を立たない人のこと。精進揚げは板の間に茣蓙を敷いて行ったので、時間が来れば組内の人たちは片付けを始め、時間になれば男衆も引物を持って帰る。いつものことだが、一人だけ、酒を飲んで動かない人がいる。女衆は茣蓙をわざわざ叩いて急かせるが、いっこうに動こうとしない。いつも同じ人であった。

ござっぱたき

茣蓙っ叩き
冠婚葬祭と人々の繋がり

祝儀はお祝いごと全体を指す言葉だが、子どものころの御祝儀は結婚式のことである。中でも嫁様が来る御祝儀は楽しみで、ハイヤーの前に酒樽を飾ってやって来るのを今か今かと心待ちにした。御祝儀は自宅で行ったから、無遠慮な子供たちが集まり、「どんな嫁様だんべ」と興味津々であった。今は、祝儀といえばのし袋に入ったお金ことを指すようになった。

ごしゅうぎ

御祝儀
感情を表すことば

県央から県東、県北部の八溝地方から広く茨城県でも使われる。「でたらめ」とか「嘘」の意味だが、悪意のあるものでなく、受け流せる範囲である。「あの先生はごじゃっぺばーし話しておもしれんだ」は、冗談を言っておもしろい先生のことだが、「ごじゃっぺばーし教えんだから」となると、「間違い」のことだから、冗談では済まない。私はずっと後者の方の「ごじゃっぺ先生」で終わってしまった。なお、当書の標題に「ごじゃっぺ」とあるが、意図的に間違えたのではなく、理解不足での「ごじゃっぺ」であるから悪意は無い。

ごじゃっぺ

生活の基本 衣と食と住

大豆を擂り鉢ですりつぶして汁の実にしたもの。方言ではない。煮立った味噌汁の中に入れると、ふわっと浮き上がる。大豆が収穫される秋から冬の美味しい家庭料理であった。本物の豆腐は町に行かなければ買えない。せいぜい葬式で白和えを作る時に使う程度で、冷や奴などは食べたことがなかった。「ごじる」は大豆の味が残り、忘れられない家庭の味であった。

ごじる

呉汁
感情を表すことば

「後世」はあの世こと。余程腹が立って、この世では収まりきれないのか。感情が抑え切れないほどの怒りを表す。広く東北地方で使われている語で、県内でも主に県北で使われる。「腹が立つ」などでは収まらない。八溝地方には古い言葉を使って怒気を表現すろことが目立つ中で、その最たる語であろう。「後世焼ける」とも言う。

ごせっぱらやける

後世っ腹焼ける
農家を支える日々のなりわい

銭の単位は株の取引情報で聞くことがある。20年代の小学校低学年の時には楠木正成が馬に乗っていた5銭紙幣が通用していた。爺ちゃんに、稲穂が印刷された紙袋に入った刻み煙草の「みのり」を買ってくるように言われて、1キロほど離れた店(たな)まで行くのが日課であった。時には、駄賃として森永のキャラメルを買うことが出来た。「みのり」は5銭札が使われたのだから、それ程高くはなかったであろう。小学校卒業とともに五銭札が通用しなくなってしまった。

ごせん

五銭
冠婚葬祭と人々の繋がり

「御託」は『広辞苑』に、「御託宣」のことで、くどくど言うこととある。託宣の元の意味は、神からのお告げであるが、やがて別な使われ方となった。言い訳していると「いつまでもごたく並べてんじゃねーよ」と言われる。有り難い「御託」がひどく成り下がってしまった。

ごたく

御託
感情を表すことば

「さっさと」と言う意味と重なるが、「ごっこと」と言われると仕事のはかどり具合が違う。「さっさと」はいかにも表面的にはスピーディな感じはするが、「ごっこと」と言う中には丹誠込めてしっかりやれと言う気持ちがこもっている。他人の仕事を評価して、「ごっこと仕事する人だね」とも言ったことから、仕事が早いだけでなく、質のいい仕事ぶりであることも含んでいた。「さっさと」とは重みが違う。

ごっこと

挨拶語 敬語 つなぐ言葉など

馳走に「御」がついて「ごちそう」となり、さらに「ごっつぉー」に転訛した。御馳走におが付い「おごちそう」が「おごっつぉ」に転訛した。馳走はもともとは接待のため走り回ることである。接頭語おを付けて「おごっつぉさんでした」という。「よっぱらごっつぉーになっちゃって(ずいぶん御馳走になっちゃて)」と、改めってお礼を言う。御飯が終わる時の挨拶も「ごっつぉさまでした」という。相撲の世界の「ごっつぁんです」も同じである。中年以上はまだ現役として使っている。

ごっつぉー

御馳走
感情を表すことば

大量にという意味である。便秘していて、「出たが」と聞かれ、「ごってりでたよ」と応える。「こってり」ではない。量がさらに増加した感じになる。「ごってり出た」となれば、単にたくさんでなく、ここでは山盛りになるほど出たことになる。「冬休みの宿題がごってりだ」といえば、負担になる量であった。先生に「ごってり絞られた」となれば、少しばかりでない怒られ方であった。

ごってり

生活の基本 衣と食と住

囲炉裏には鉤吊しがあり、いつも鉄瓶が掛かり、火の脇には鍋などをつっ掛ける五徳が置いてあった。3本脚でありながら五徳と言った。脚の下は灰に潜り込まないよう、内側がL字に曲がっていた。五徳の上の鍋は、時々かき混ぜないと、火の方ばかり焼け焦げてしまう。今ではすっかり用済みになったが、鍛冶屋が作った重い五徳が、囲炉裏の灰の中に半ば埋まるように残っている。

ごとく

五徳
生活の基本 衣と食と住

トイレのこと。通常「おんこば」、少し前までは、「手水場(ちょうずば)」、「はばかり」などと言った。その中で、戦後しばらくまでは、女性たちを中心に「ごふじょ」と言っていた。排便は決して不浄な行為でないが、できるだけ現実から遠ざけ、汚さを連想させない表現をするため、言葉が定着するとまた新しい言葉が登場する。便所から化粧室となり、今はトイレという外来語になったった。外来語のトイレは汚さを連想させないから、これからも長く使われるだろうか。それともやがて変わるのかどうか。、

ごふじょ

御不浄
子どもの世界と遊び

消しゴムでなく「ゴム消し」である。質の悪いゴムはなかなか消えないばかりか、汚れがべったりと広がってしまうこともある。「ゴム糞」が多く出て、勢いよく吹き飛ばすと前の女の子の背中にべったりとくっついた。紙も粗雑な物であったから、字を消している時によく破けた。今は「消しゴム」という。

ごむけし

ゴム消し
子どもの世界と遊び

女の子たちは学校でも帰宅後の集落でも盛んにゴム跳びの遊びをしていた。高さを変えながら、次第に難易度が高まり、片足で引っかけて跳んだり、頭よりも足を高く上げて跳んだりと多彩な技があった。スカートの裾をパンツのゴムに挟んでいた。女の聖域で、男の子たちは加わることはなかった。

ごむとび

ゴム跳び
挨拶語 敬語 つなぐ言葉など

他家を訪問する時の挨拶で、「御免下さい」のこと。「なんしょ」は敬語として、お茶を勧めるのも「お上(あが)んなんしょ」と言う。婆ちゃんはしばしば使っていたが、爺ちゃんが使っていたという記憶がない。江戸言葉の名残として、福島や茨城、長野方面でも使われているという。

ごめんなんしょ

御免なんしょ
地域を取り巻く様々な生活

神様の仕業であるから、ゴロゴロなる音に敬称を付けたものであり、雷様(らいさま)ともいう。夏場に遠くで雷鳴が聞こえてくると、干している煙草を取り込まなくてはならないので、子供たちも遊びを止めて家路を急いだ。蒸し暑かった昼の気温が下がり、ゴロ様が過ぎた後の土や草の臭いは忘れられない。
ほど良い時期に、ほど良い量のお湿りは農家にとって文字通り干天の慈雨であった。時雨に「お」と畏敬の念を込めて敬称を付け、雨乞いの雷神様をお祭りしている地域も多い。雨の降らない空雷様(かららいさま)は落ちるから気をつけろと言われた。

ごろさま

生活の基本 衣と食と住

製材前の丸太を「ごろた」といい、同じように、小さく刻まないで、塊のままの煮たものを「ごろたに」という。暖かいかんぷら(ジャガイモ)の「ごろたに」は小時飯(こじはん)の定番であった。最近は何でも見た目を良くする食品が多く、スーパーにある「きんぴら」などは楊枝のように細く切ってある。八溝の野菜の「ごろた煮」は、大きな煮干しが入っていて、ゴボウやニンジンの素材の味が残っていて美味しかった。

ごろたに

五郎太煮
地域を取り巻く様々な生活

標準語として広辞苑には「ごみどころ」の約と出ているが、八溝の「ごんど」は単なるごみではない。藁仕事の後や脱穀の際に出るゴミなどをいい、生ゴミんどは含まない。五右衛門風呂ではごんどが重要な燃料であった。庭先には「ごんど」を集めて置く場所があり、ニワトリが足で「かっちらして」いた。ビニールなどが普及する前であったから、燃やしても有害物質は出なかった。自分の家のゴミは自宅で燃すのは当たり前であった。

ごんど

埃処
感情を表すことば

豪勢と書くと、贅沢であったり、優れた様子になるが、「強勢」は、勢いよくという意味で、強引という意味にもなる。「ずいぶん豪勢(ごーせ)だね」と、御馳走が存分に出されたときに言う。一方、「そだに強勢(ごーせ)にしたんじゃ、ぼっこれっちゃうよ(そんなに強引にしたら、壊れっちゃうよ)」と制せられる。二つの言葉が合わさったような意味を持つ「ごーせ」は、八溝言葉言葉としてどう定着したのか興味深い。良い響きの語である。

ごーせ

強勢
感情を表すことば

腹が立つことだが、その程度がはなはだしく、言葉や態度に出さないではいられないほどの時に言う。「業腹」だけでも怒りが収まらないのに、「意地焼ける」の「焼ける」がついて、気にくわない状況がさらに増幅する。「おもしかない(おもしろくない)」ともいうが、それでは何か不十分で、「ごうはらやける」ぴったりの言葉であった。

ごーはらやける

業腹焼ける
生活の基本 衣と食と住

ゴールデンバット。煙草の銘柄である。父親が吸っていたもので、薄緑の箱の中に20本の紙巻き煙草が入っていた。爺ちゃんの世代は刻み煙草であったが、父親の時代には紙巻き煙草であった。父親はヘビースモーカーであったから、家で作っている葉煙草を乾燥させ、刻んでは英語辞書を破いて紙巻き煙草を作っていた。紙巻きを造る簡単な器械があった。上質な紙であったから、大事な「コンサイス英語辞書」が煙になった。ゴールデンバットも手に入りにくい時代であったのであろう。

ごーるでんばっと

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