【コラム】常野国境のみちしるべ
黄門様も通った大内村の旧道
旧大内村は下野国と常陸国の国境にあり、江戸時代には、南郷と呼ばれた東白河郡やさらに北の石川郡とも経済的に繫がっていましたから、村内の道を地域外の旅人や馬子たちも多く通りました。そのため、草に埋もれた山道に、江戸期に建立された馬頭観音や庚申塔に刻まれた道しるべが多く残っています。道しるべが多いということは、それだけ他地域との交流が多かったことの証しです。国境の峠を越えて、廻米や煙草、和紙、薪炭などが馬の背によって鬼怒川や那珂川河岸に運ばれ 水運を通して江戸に送られました。物流に伴って、ことばや文化も影響し合いました。
道しるべは、地域結社の人たちによって、坂の登り口や分岐点に馬頭観音とともに建てられましたものも多くあります。道しるべを兼ねた石仏は、馬の安全も祈願しました。川原石に稚拙な彫り物で、行き先を示した文字は平仮名が多く見られます。通行する人たちが、漢字が不如意の馬方であったりしたからと思われます。例えば、「右さくば道 左やまた」というものがあります。「やまた」は、山を越えた次の集落の矢又です。さく場道とは作場道のことで、田畑に通じる道を意味します。昔の街道が作場道と変わらなかったのでしょう。
大内地区の「海道平」という小字に、町内で一番古い道しるべが残ってます。海道は街道よりも古い言い方で、宇都宮の奥州街道沿いにも海道町があります。古くは海道と言っていましたが、幕命により、海を通る道でないことから「道中」と改められ、日光道中とか奥州道中と呼ぶことになり、管轄も道中奉行となりました。しかし、「かいどう」が耳に慣れていたことから、同音の「街道」となり、今に繫がっています。海道平の地名も街道以前の古い呼称と思われます。そこにある道しるべには「右鷲子道 左保内道」とあります。保内は大子周辺の古い地名です。この道しるべから、大子と馬頭は古くから交易が盛んであったこと、さらには、鷲子山(とりのこさん)への参詣者が多かったことも分かります。
<「左とりの古 右馬とう」の道しるべ>
なお、道しるべを調べると、旧街道が思わぬ場所を通っていることに気づきます。その多くの理由は、川を避けるためです。江戸時代は、道普請ばかりでなく、橋の普請も地域の負担でした。馬は板橋を嫌うため、土橋にしましたから、橋桁の腐食も進みやすく、橋の管理のため財政負担を強いられます。そのため、架橋をしなくても済む急な坂道を上下したり、川の蛇行に従って大きく迂回することになりました。今でも旧道が何か所か残っています。
山深い大内地区の細道を通って、水戸黄門こと徳川光圀が鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)に参拝しています。光圀は黄門様と呼ばれていますが、黄門は中国では中納言を指す官職名です。光圀は中納言でした。水戸徳川家は御三家ですから、定府(じょうふ)と言って参勤交代がありません。幕政に直接関わる要職でしたから、全国を漫遊して悪代官を懲らしめているテレビ番組は史実ではありません。そのような多忙な中でも、自領に帰藩が許されると、藩内を精力的に巡見し、寺社改革などを積極的に進めました。旧馬頭町は武茂(むも)と言って水戸領でしたから、光圀は8度に亘って来訪しています。その内1度、大子から山間の道を通って大内を経由して鷲子山上神社に宿泊しています。神社の参道には「黄門橋」があり、社務所には「黄門の間」があります。今ではすっかり草に覆われ、杉の枯損枝に埋もれている山道が、かつては馬や人の往来が多く、黄門様がお通りになった道だったのです。
自分のふるさとに多くの石仏と道しるべがあるのは、先人たちの優しい心根の表れであり誇りにおもいます。しかし、それ以上に過疎の波の激しさを嘆かざるを得ません。いち早く離村して過疎に荷担した一人として、石仏を見ながら、言い訳を考えるばかりです。