八溝の言葉はおもしれぞ

<増水すると両岸に分離する究極の沈下橋>

<もったいないという意味で今も使われている>

<村に一軒だけになった炭焼き>
私の生まれ育った那須郡旧大内(おおうち)村は、八溝地域の中にあっても最も東にあり、「ひと山」越えれば茨城県です。江戸時代には水戸藩領であり、人と文化の交流も茨城県とのつながりが強い地域でした。戦前には大子(だいこ)にある農学校に通う人もあり、昭和30年代までは、中学校の同級生の多くが大子の高等学校に進学し、国鉄バス「常野(じょうや)線」(常陸と下野を結ぶ鉄道の代替として走った路線)で通い、あるいは峠越えをしながら自転車で通っていました。通婚圏も重なったので、冠婚葬祭の決まりや、それに伴う言葉も共通していました。
人ばかりでなく、魚などの海産物を始めとする交易品も峠を越えて茨城から入り、さらには、大子から北につながる福島県の久慈川上流部との経済的なつながりもありました。葉タバコやコンニャクの生産など、共通した畑作地が多く、生産の仕組みも同じであったことから、言葉の共通点も多く見いだせます。
また、那珂川の支流の最上流部に位置することから、谷口町の馬頭はもちろん、城下町で、しかも経済・文化の中心である烏山との結びつきも強く、さらには川を通して芳賀郡の茂木方面ともつながっていました。これらの地域とは経済だけでなく、文化的な繋がりも見られます。
普段何気なく使っている言葉は、その地域の歴史の集積です。言葉に関心を持つと、その背景となる人の往来や物流、ひいては文化の交流をたどることが出来ます。特に、旧大内村は、行き止まりの地域であったため、比較的遅くまで独自の文化を継承し、古い八溝の言葉を残していました。すでに使われなくなったり、使われなくなりつつ言葉をたどっていくと、地域の変遷がよく分かります。昭和30年前後の八溝の言葉は一地域の歴史だけでなく、広く戦後日本の変遷が凝縮された歴史の宝箱です。