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八溝の大内村ってどんなとこ

Ⅱ 旧大内地区の位置:赤の点が我が家。馬頭まで2里丁度、大子まで4里.jpg
Ⅰ 栃木県全図 :県域の那珂川町の位置。県内で庁舎が鉄道と高速道路から一番離れて
旧大内村役場付近図.jpg

~ 佐藤 英夫氏 作成 ~

大内村の地名由来
旧大内村への入り口:大子街道をトラック疾走する.JPG

<旧大内村への入り口:大子街道をトラック疾走する>

 漢字での表記は大内であるが、地域の人たちは「おおち」あるいは「おおじ」と発音します。 『地名用語語源辞典』には、「入り口が狭く、内の広い土地。 盆地状の土地」とあり、塙静夫著『とちぎの地名』には「奥に入り組んだ山間の小平地」とあります。 いずれも地形からの由来で、由来どおりの典型的な中山間地です。

 馬頭の市街から、大子街道を東進して山間に入ると、決して高くはないが400㍍級の急傾斜の山地に挟まれた狭隘な地形となり、馬坂(まざか―「ま」は程度のはなはだしい真のことで、急な坂道をいう)の集落を抜けると一転して盆地状の大平(おおひら)になります。 大平は、大きく開けた場所で「ひら」は傾斜地、あるいは平地を指し、昭和29年の町村合併前の大内、大那地(おおなち)、谷川(やかわ)、盛泉(もりいずみ)の四大字で構成する旧大内村の役場の所在地でした。

 大平で盛谷(もりや)川と大内川が分流し、そのまま盛谷川に沿って東進すれば谷川から盛泉を経て境の明神峠を越えて茨城県の大子町に達することができます。 この地域を貫通する街道は、近世には茨城県北から福島県の東白河地域の棚倉や塙方面と、那珂川の久那瀬河岸や鬼怒川河岸の舟航に繫がる重要な流通路でした。 今も国道が通じています。

 旧村の中心から大内川沿いの狭い河岸段丘を遡行すれば、烏帽子(えぼし)掛(かけ)峠を越えて旧美和村(常陸大宮市)に至り、途中で分岐すれば、2県の県境に鎮座する鷲子(とりのこ)山上(さんしょう)神社に至ることができます。 ただ、いずれの道も自家用車がようやく通れるだけの幅員で、地元の人が利用するだけの昔ながらの山道です。 旧大内村の主要部は、モータリゼーションの時代に取り残された、行き止まりの村落になってしまいました。 我が家は、旧大内小学校(現馬頭東小学校)に近い、旧村のほぼ中央部の段丘面の崖端にありました。

村の地形
④がぼし:大内地区は棚田のような狭い田んぼが多く、大型機械が入らないのでまだ「が

<がぼし:大内地区は棚田のような狭い田んぼが多く、

大型機械が入らないのでまだ「がぼし」が多い>

 旧大内村は、福島県と茨城県の県境にある標高1022㍍の八溝山から南に延びる八溝山地の標高300㍍前後から500㍍前後の鷲子(とりのこ)山塊の最深部に位置しています。 

 大内地区とその上流の大那地地区を貫流する大内川は、那珂川町域で最高峰である標高512㍍の尺丈山を源とし、蛇行しながら那珂川支流の武茂川に流下しています。南西斜面に高い稜線があることから、日照時間が少ない集落もあります。川の段丘面に沿って数軒ずつの集落が連続しています。水田は、本流に流入する谷によって開析された小扇状地状の限られた場所にあり、一区画の面積も大きくありません。戦後30年代までは、換金作物の葉タバコとコンニャクの栽培が中心でした。

 周囲の山には屋敷のすぐ後ろからスギが植林され、尾根筋にはヒノキが植林され、黒木の山が広がっています。また、葉タバコやコンニャクの畑作が盛んであったことから、堆肥用の落ち葉を確保することと、さらに30年代までは薪炭の生産が盛んであったので、ナラやクヌギを中心とした手入の行き届いた雑木山たくさんありました。

このような村の地形は、地域の人々に恩恵をもたらすとともに、制約もしてきました。

自然条件
大内川の蛇行:古い地層のため浸食が激しく、段丘崖が高い。我が家は崖のにあり、川の

<大内川の蛇行:古い地層のため浸食が激しく、段丘崖が高い。

我が家は崖の上にあり、川の音の中で生活していた>

内陸性の天候であったので、盛夏の最高気温も比較的高く、葉タバコ栽培に適していました。 ただ、発雷率は高く、那須と八溝の山系に発する積乱雲が襲来し、雹などによる被害もしばしばでした。 冬の最適気温はマイナス10度に達することもあり、春先の晩霜など、冷害による農作物への影響も少なくありませんでした。 また、季節風は、那須からの直接の吹き下ろしではありませんでしたが、谷沿い特有の冷たい風で、屋敷北側には藁で風除けを造り、防風に努めました。 寒暖差のある県境の鷲の子山付近には、南方系の照葉樹と北方系の針葉樹が混在し、豊かな植生が見られます。

地域を貫流する那珂川支流の大内川は、かつて洪水による被害もありましたが、現在は護岸工事が完了し、溢水の心配はなくなりました。 反面で流路が人工的な掘り割り状になり、蛇行を少なくし直線化することで流れが速くなり、カジカやウグイなどの棲息する場所が減少してしまいました。 また、ブロックによる護岸のため、いかにも人工物という感じになって、地域の人と川との繋がりを著しく欠くことになってしまいました。 かつては馬を連れて川に下りていった場所も、今は急なコンクリート階段を下り行かなければなりません。 子どもの川遊びの声も聞こえません。

 地域を取り巻く自然が大きく変わりつつあります。 それとともに、自然と密接にかかわりながら生活してきた人たちも、自然との距離が大きくなり、自然との関わりのある言葉も急激に少なくなってきました。

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