top of page

九州

1_08 明治維新後 佐賀の乱と秋月の乱

<武雄温泉楼門:奥が温泉施設 佐賀では祐徳稲荷も印象に残った>

初代栃木県知事の鍋島幹は、薩長土肥と言われる明治新政府を支えた雄藩肥前佐賀の出身ですから、納得もしています。しかし、維新後、佐賀の乱があり、連鎖して秋月の乱、さらに萩の乱、最後に西郷の西南戦争が起きました。佐賀と秋月を訪ね日本史を学び直しました。

佐賀の乱/肥前一国が長崎と佐賀県に分割、佐賀県は、九州では一番面積の小さな県です。幕末の佐賀藩主鍋島直正は、人材育成、海防の重要性、反射炉の建設など幕末の日本をリードする英邁な藩主でした。肥前からは、日本最初の政党政治の総理大臣大隈重信、初代司法卿江藤新平などが新政府の中枢として活動しました。

しかし、西洋、とくにプロイセンの軍隊や法律を学んだ大久保利通や伊藤博文など岩倉視察団が帰国すると、留守居政府の西郷隆盛や江藤と政権運営で対立し、「明治6年の政変」が起きました。敗れた西郷は薩摩に、江藤は肥前に下野しました。   

佐賀県内には、廃刀令や国民皆兵による士族の地位の低下の不満が高まり、維新時には倒幕で一致して戦った新政府軍に対して不満が高じ、明治7年、士族約1万2千人が蜂起したいました。「佐賀の乱」です。しかし、大久保を中心とする新政府軍に制圧されました。このため、佐賀県は長崎県に併合、明治16年にようやく再設置になりました。

佐賀より後発の伊豆韮山には残っているのに、佐賀市内には日本初の高炉跡などの近代化遺産は残っていません。その代わり、宿泊した武雄温泉では、楼門に圧倒され、強く印象に残りました。設計は東京駅や日本銀行を設計した辰野金吾で、国の重要文化財です。

秋月の乱/筑前の山間の城下町で、佐賀の乱に触発され、士族による反乱が起きましたが、新政府側に鎮圧されました。朝倉市と合併した秋月は福岡黒田藩の支藩の城下町で、鉄道駅からも離れています。城内の武道場では剣道の寒稽古中で、城下町だとの実感をしました。

「秋月の乱」と同じ時期、明治維新に多くの人材を輩出した長州でも、明治になって松下村塾の塾長を含めた士族の「萩の乱」が起きました。佐賀と秋月を訪ね、激動の時代を生きた人たちに焦点を与え、自分の身と引き比べてみると、腑に落ちる部分があります。

自分が組織を支える側にいる時はリーダーになっても、その地位を失うと、反対勢力に回り、自分の地位を守るため、対抗勢力となることは普通に起きうることだと考えました。

教科書の頭注に書かれていた小さな記載の「秋月の乱」の場所を訪ね、時代の激変の中での身の処し方の難しさを実感しました。若い時には気づかなかったことです。

      <秋月城:陣屋形式の小さな城郭で、当時の門が残っている>
      <秋月城:陣屋形式の小さな城郭で、当時の門が残っている>

bottom of page