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九州

1_05 二つの子守歌

<前かがみの子守像:道の駅「子守唄の里五木」>

慈愛に満ちたブラームスの西洋の子守歌などと違って、日本の子守歌は、奉公に出された少女たちが自分の身の不幸を嘆く労働歌です。「中国地方の子守歌」では「起きて泣く子の面憎さ」とあり、フォークソングのように歌われた「竹田の子守歌」の京都郊外の竹田の子どもが、「雪もちらつくし 子も泣くし」と嘆いています。

五木の子守歌/ 豪雨で熊本県人吉市が大きな被害を受けました。その際、上流五木村の川辺川ダムの再計画が話題となりました。「コンクリートから人へ」のもと、ともに計画中止となった群馬県の八ッ場(やんば)ダムはすでに完成、ダム湖近くの道の駅も賑わっています。

一方、五木村でも、ダムを観光の拠点に再生を図るため、高台に「道の駅子守歌の里」を先行して完成させましたが、途中で計画が中止されました。ダムサイトには、子を背負って前傾しながら自分の村からの音を聞こうと、耳に手を当てている少女像があります。

古来、焼き畑中心の五木村は貧富の差が大きく、「おどま勧進(かんじん)勧進 あん人達ゃ良かしゅ(私は乞食のようなもの、あの人たちは裕福)」とあり、「盆が早(は)よ来りゃ早よ戻る」と年季開けをひたすら待ち、もし死んだら道端に埋めて欲しいと願っています。改めて五木の子守歌の歌詞を調べてみてください。

首都圏のダムと比べ、大きな声になりにくい五木村のダムは建設途中で中止され、村の人の思い抱いていた生活設計も頓挫し、訪ねていった時には工事現場に青いシートが掛けらてれたままになっていました。時々の政治に翻弄され、今度はまた再計画が持ち上がりました。すでに村を下りしまった人もおり、人口が700人台まで減少し、産業に似たい手不足も深刻です。「ひかり輝く五木村」のスローガンで村の再生を図っています。なんとか盛り返して欲しいと願わずにはいられませんでした。 

島原地方の子守歌/マレーシアの高山キナバル山登山の帰途、カリマンタン島のサンダカンに寄ってきました。サンダカンはマレーシアのサバ州第二の都市で、人口が39万人だと言います。イスラム教の国です。サンダカンに行く目的は、山崎朋子の小説『サンダカン八番娼館』の場所を見たかったからです。

島原や天草地方は、江戸時代から戦前まで、苦界(くがい)(娼婦としての辛い境遇)に身を置いた「唐行(からゆき)さん」を多く出した場所です。中でも、多くの日本人が働きに出ていたカリマンタン島には娼館がありました。中には金持ちの華僑の妾となるものも少なくありませんでした。

「島原地方の子守歌」は「おどみゃ 島原の 梨の木育ちよ」で始まり、「早よ寝ろ泣かんでおろろんばい 鬼の池の久助どんの連れんこるばい」と続きます。鬼の池は天草の地名で、人買いの久助が住んでいるところです。子を泣かすような子守りは久助に買われて異国に売られてしまうので、なんとか泣き止んで欲しいという懇願です。貧しい境遇の子達にとって、子守り奉公はましな仕事でした。  

サンダカン娼館の跡は分かりませんでしたが、それぞれ短命に終わり、帰国できた人はまれです。現地で亡くなった人たちの墓がありましたが、隣接する華僑の墓の立派さに比べて倒れているものもあり、母国に背を向けて建っていました。島原の子守歌には、少女たちが背負った重い歴史が込められています。子守歌の場所を訪ね、学ぶことが多くありました。

<サンダカンの女子中学生:全員イスラム教徒>
<サンダカンの女子中学生:全員イスラム教徒>

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