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九州

1_04 日本一の私塾と日本初の有料トンネル

<日田市:咸宜園跡>

関東在住者にとって、大分県は九州の中でも行きにくい場所ですが、フェリーで徳島まで行き、四国を横断し、愛媛県西端の佐多岬から、豊予海峡を渡り、関サバで知られる佐賀関に渡り、大分県の二つの史跡を廻りました。

日本一の私塾咸宜園(かんぎえん)/江戸時代の豊後国日田(ひた)は、筑後川の川湊もあり、四通八達の交通の要衝でした。さらに、西国外様大名の監視のため幕府直轄地とされたことから、政治経済の中心地として栄え、町並みは重要伝統的建造物群保存地に指定されています。

商家出身の広瀬淡窓(たんそう)が開いた私塾の咸宜園は、「ことごとく宜(よろ)し」という意味での命名です。教育方針は「身分」・「出身」・「年齢」を問わない「三奪」、当時の塾としては珍しく、儒学にとらわれず、広く天文や医学も学ばせました。多様な人材が集まり、幕政を批判し自殺に追い込まれた蘭学者高野長英は奥州水沢出身、明治維新後に国の中枢となった大村益次郎は周防(すおう)(山口県)出身です。多様な人材が集まったので、水戸の弘道館のような藩校と違い、偏狭な攘夷論に偏らず、また、足利学校のように体制を支える限られた階層の人とも違って、明治の新時代にも活躍する多様な俊英が巣立ちました。

淡窓の漢詩「休道(きゅうどう)の詩」に、「道(い)うを休(や)めよ 他郷辛苦多しと(中略) 君は川水を汲め 我は薪を拾わん」(現代仮名遣い)とあります。故郷を離れている塾生に対し、苦労が多いと言ってはいけない、さあ一緒に朝食の用意をしようと、率先して行動を共にしています。

咸宜園の資料に卒業生の出身地一覧がありました。全国六十六カ国中で塾生のいないのは2か国で、そのうちの1か国が下野国だと聞いて、少々肩身の狭い思いをしました。

青の洞門/道徳の教科書にも載り、テレビでも放映された菊池寛の小説『恩讐(おんしゅう)の彼方に』の舞台は中津市の耶馬溪にあるトンネルです。人を殺(あや)めたことを懺悔して出家した禅海(ぜんかい)和尚(小説では了海)は、耶馬溪(やばけい)の険しい道で命を落とす人もいることを知り、自ら鑿(のみ)を持って洞門をつことを発願(ほつがん)し、念仏を唱えながら一鑿一鑿掘り続けていました。

そこに殺害相手の息子が父の仇を打つためにやって来ました。禅海は、命は惜しくないが、せめてこの洞門を掘り終えるまでと、命乞いをします。洞門は21年の歳月を掛けて貫通しました。小説は、恩讐を忘れて二人は抱き合う感動の幕切れとなります。

これは史実と違い、禅海は一人で掘ったのではなく、各地を托鉢して資金を集め、石工を雇って掘り進めたということです。仇討ちもフィクションだということで、小説がテレビドラマで放映されていることから、多くの人は小説を信じているはずです。

現地に行って、洞門が人馬の通行料を取る有料であったことを知りました。このことは小説に書いてありませんし、教科書に記載されたらどんなふうに指導するのでしょうか。

歴史は美談で終わらすのでなく、別な角度から考えることの重要さを学びました。今は拡幅されていますが、所々に鑿の跡が残っています。

<中津川市耶馬溪:青の洞門>
中津川市耶馬溪:青の洞門

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