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九州

1_02 九州に渡った下野の人々

<熊本県山鹿市:鞠智城望郷の像>

奈良時代の防人(さきもり)、鎌倉時代の元寇、豊臣秀吉の朝鮮出兵など、激動の時代に遭遇した下野の人たちは遠く九州に渡りました。防人となった農民たち、下野の名門守護の宇都宮氏という、時代も立場も、また目的も違いますが、九州と下野の人たちの関わる場所を訪ねました。

防人たちの嘆き/663年、斉明天皇在位の奈良時代、朝鮮半島白村江(はくそんこう)で、唐・新羅の連合国と百済を救援する目的の日本軍は大敗し、百済は滅び、朝鮮半島の足掛かりを失いました。大和政権は、連合軍の来襲を恐れ、対馬や玄界灘に城柵を築きました。さらに大宰府を取り囲むように水城を築き、内陸の肥後国(熊本県)の防御拠点の鞠智(きくち)城を築きました。

九州北岸や壱岐、対馬の岬を守る人が防人(さきもり)です。多くは東国の農民たちが割り当てられ、武具などの装備をはじめ、往復の食糧も自弁でした。都では「青丹(あおに)よし 奈良の都は咲く花の」と貴族たちは我が世の春を謳歌し、壮大な都城を営み、大寺が造営されました。

一方で、大伴家持が編纂した『万葉集』の、山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」には農民たちの厳しい生活の状況が詠まれています。また同じ『万葉集』の「防人歌」には、家族との別離や急病中に徴発された悲哀を詠んだ下野の防人たちの歌など11首が載っています。「国々の 防人集ひ船乗りて 別るを見れば いとも術(すべ)無み」と、船に乗せられてしまうと、もうどうしようもないと嘆いています。無みの「み」は、理由を示しますから、無みは、「ないので」という意味で、防人の心の叫びです。

熊本県山鹿市の鞠智城は、厳しい国際状況を反映し大和朝廷築いた山城です。城跡にある望郷の像を見て、無名の防人たちの苦衷を考えました。

名護屋城/ 天下人となった豊臣秀吉は、大陸に進出する野望を膨らませ、その拠点として玄界灘に突き出た名護屋に、国内外を威圧する金箔瓦の天守閣を持った城郭を築城しました。下野関係の宇都宮氏や氏家氏なども名護屋城の近くに居館を構え、家名を上げお家の安堵を図るべく「一所懸命」出精、朝鮮半島に渡って活躍しました。「文禄慶長の役」です。

一人の暴政者が生まれると良識などは通用しません。大名たちは競って手柄を立てようと、加藤清正の虎退の退治のエピソードが生まれほどに、半島の女子や子どもまでも「撫で斬り」にし、首の代わりに耳をそぎ落として恩賞に預かろうとしました。

一度は和平が成立しますが、秀吉は再び半島に兵を送りました。名護屋城の城跡の説明板には諸大名の屋敷割が描かれています。下野の名門であることから宇都宮氏は本丸に近い位置に屋敷を構えていたことが分かります。一族の氏家氏の名前もありました。

宇都宮氏の当主国綱は忠勤に励みますが、突然の改易(取り潰し)に遭い、世に言う「宇都宮崩れ」となり、家臣ともども領地を失いました。秀吉の死の1年前、関ヶ原合戦の3年前です。理由は分かりません。激変の中で、同じような運命をたどったのは宇都宮氏だけではありません。

名護屋城の建物は残っていませんが、崩れ落ちた石垣にその規模の大きさをうかがい知ることができます。派遣された一般の武士たちを始め諸大名まで、崩れた石の数ほどに多くの人の歴史が詰まっています。

今と比べて州がどれほど遠い地であったか、それでも為政者によって多くの下野の先人たちが九州に渡っています。古代から九州と東国が無縁でないことを知りました。

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