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九州

1_12 博多連泊その3 地下足袋からタイヤへの町

<「日本足袋株式会社」から発展したアサヒシューズ>

地下足袋は、直に地面を歩ける足袋のこと、「じかたび」が正しい読みで、ブリヂストンの前身の会社の「商品名」です。博多から北原白秋の生家が残る柳川に行き、久留米に寄りました。

地下足袋発祥地/久留米は筑後川の水運、薩摩街道と豊後に向かう日田街道の分岐の交通の要衝地で、城下町として栄えた場所です。また、日本のゴム産業の発祥地でもあります。

ゴム産業の発端は地下足袋に始まります。従来まで草鞋のため消耗の激しい労働現場では足の危険もあり、作業効率も上がりません。石橋徳次郎・正二郎兄弟は、家業の仕立て屋から足袋屋に転業、アメリカのテニスシューズにヒントを得て、足袋の底にゴムを貼り付けた「地下足袋」を製造販売、炭鉱労働者などから仕事の効率が上がることで好評となり、全国の農村にも普及しました。同じころ日華ゴムの「ムーンスター(月星)」も久留米で誕生します。

石橋兄弟の「日本足袋(後のアサヒシューズ)」は、サイズに関係なく均一値段にしたことなどから、国内ばかりかアジア各国にも販路を広げ、久留米はゴムの町となって発展しました。

その後、アサヒシューズは、学校での上履きや体育館履きの定番になり、さらに洋装化が進むと、布にゴム底を貼り付けた安価なズックを販売、大きく躍進しました。現在は介護用の「メディカルウォーク」など幅広い分野でシェアを伸ばしています。

私も、子どもの頃からのアサヒシューズから、介護用靴になる日も遠くありません。

ブリヂストン/ブリヂストンの社史によると、地下足袋からスタートしたとのことです。

石橋兄弟の弟正二郎は、大正12年の東京大震災をきっかけに、やがてバスやトラックの時代が来ることを予感し、周囲の反対を押し切り、昭和5年、日本足袋株式会社に、タイヤ部門を発足させました。外国の先進メーカーの寡占の中、技術的にも未知で、外国人の技術や資本に頼らない「工業報国」を社是としことから、苦難のスタートになりました。

  足袋会社では国際的に信頼がないとして、社名を「ブリッヂストーン」としました。製品化しても、外国産に押され、販路は開けませんでしたが、日本足袋株式会社の代理店が窓口となり、不良品は必ず交換するという品質保証を付けて、販路を拡張していきました。先発メーカーにない努力によって、現在は世界最大のタイヤメーカー「ブリヂストン」になりました。

石橋正二郎は美術館を創設、栃木県と関係する画家青木繁の作品も所蔵展示しています。日暮れの早い年末の旅、工場は休業のため看板だけを撮ってきました。久留米は日本一焼き鳥屋が多いとのこと、串焼きとビールで福岡の旅を締めました。

<ブリヂストン発祥の久留米工場:本社は東京にある>
<ブリヂストン発祥の久留米工場:本社は東京にある>

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