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九州

1_11 博多連泊その2 水郷柳川 立花邸と白秋生家

<日本で唯一泊まれる国指定名勝:洋館は見学のみ>

有明海に臨む柳川は、博多から西鉄で約1時間、水路が縦横にめぐる城下町です。遊覧船には乗らず徒歩で、藩主の子孫が営む料亭旅館と、北原白秋の生家を訪ねてきました。

料亭旅館御花/柳川藩の城主立花氏は、関ケ原の合戦で西軍に加担したことから領地没収となりましたが、その後陸奥棚倉藩3万石の大名に復帰しました。苦節20年、再び柳川藩10万石の大名として復活しました。除封(じょほう)された大名が旧領に復したのは、先にも後にも立花氏だけです。それだけに立花氏が幕政にとって必要な家系であったのです。

 歴代領主は有明海の干拓や筑後川の堤防を強化することで田地を増やし、飢饉に際しての施しをするなど、領民に慕われていました。5代藩主が二の丸から、日常的に暮らす別邸と庭園を建築し、「御花畑」と名付けました。

明治以降、多くの大名は城地を離れますが、立花氏は地元の農業振興などに尽力し、戦後の伯爵の爵位を失うなど苦難の中でも、料亭「御花」を創業、「殿様商売」を心配する人もいる中で、今では鹿鳴館風の洋館と庭園は柳川観光では外せない名所となっています。

もちろん私は、千円の見学料だけで、御花の料理には手が届きません。

北原白秋旧家/堀に面した白秋の実家は、酒造業を営むなど柳川でも指折りの商家でした。縦横にクーリー(堀)がめぐらされている柳川という風土が白秋に影響を与えました。

親の反対を押し切り、文学を志し、旧制中学を中退して上京、若山牧水や高村光太郎らと交流、フランス象徴主義に影響から、「詩は生命の暗示にして単なる事象の説明に非ず」と、

思想や感情を直接表現するのでない「象徴詩」の世界に没入、森鴎外主催の詩誌『スバル』に参加、目に見えない精神世界を詩に表現し、その牽引者となりました。

九州の風土を背景としたキリシタン趣味の『邪宗門』を発表し、詩壇に新たな風を送りました。邪宗門の冒頭に「父上は はじめ望み給はざりしかども(中略)もはや咎(とが)め給はざるべし」と、父への贖罪をこめて新詩を世に問いました。第二詩集『思ひ出』は郷土柳川の風物や幼少の思い出を叙情豊かに歌ったものです。

しかし、実家の家運が傾くなど私生活での苦悩も重なり、童心に帰るように「待ちぼうけ」「ペチカ」などを発表、中でも「砂山」は山田耕作と中山晋平の二人が別に作曲しています。日本文学近代史の中に確かな足跡を残しました。

柳川の町の雰囲気から、白秋は柳川の風土が生んだ詩人であることを確信しました。

<北原白秋生家:中は資料館になっている>
<北原白秋生家:中は資料館になっている>

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