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九州

1_01 俊寛僧都遠流の鬼界が島へ

<俊寬を演じた18代中村勘三郎:島で記念講演を行った>

「足摺」/『平家物語』の「足摺(あしずり)」の巻は、能や歌舞伎でも演じられている名場面です。平家打倒を目指した謀議が密告され、俊寛僧都(しゅんかんそうず)をはじめ3人は清盛の逆鱗(げきりん)に触れ、「遠流(おんる)」の刑で絶海の孤島鬼界が島に送られました。佐渡や隠岐に比べても流刑の中でも最も重い刑です。3人の内俊寛以外の2人は恭順の意を表し、神仏を祀り帰京を祈願します。一人俊寛はかたくなに信念を貫ぬこうとします。

 流刑から1年後、清盛の娘徳子が後の安徳天皇を懐妊したことで恩赦があり、島に御赦免船がやって来ました。しかし読み上げられる赦文に俊寛の名がありません。俊寛は何度も確認をしますが、自分は告げられませんでした。二人を乗せた船が港を出る時、船にすがりつき「足摺」をして懇願します。島に残された俊寛は、絶望の中で絶食、念仏三昧(ざんまい)、37歳でなくなります。

火山の鉄分で黄色く濁った海に残る足摺岩を見ながら、様々なことを考えました。俊寛の配流の前から今も島民が暮らしていた島の名前を「鬼界」とする都人(みやこびと)たちの身勝手さ。また、自分が三人の内の一人であったら、赦免された二人のように、信念よりも保身に走ったたに違いないし、一方で、見せかけ上は強い信念を持っているようにしていても、いざとなったら俊寛同様「足摺」するに違いないと自省しました。


鬼界が島/鬼界が島の正式名は薩摩硫黄島で、その名のとおり火山島です。竹島と黒島の三島から構成されることから「三島村」という名称になり、村役場は鹿児島市内にあります。なお、屋久島と奄美大島間にある十島村も村役場は鹿児島にあります。一つの島に庁舎を置くことでかえって不便になってしまうということです。

三島村営のフェリー「みしま」が、週4回鹿児島港から、途中竹島港に寄港して硫黄港に着岸、その後三島で最大の黒島に向かいます。硫黄島までは約4時間の乗船ですが、訪問当日下船したのは数人、それも観光でなく仕事関係の方でした。

薩摩硫黄島の人口は120人弱で、高齢化が進んでいました。近年ガソリンスタンドができましたが、タクシーはありませんでしたので、島内はすべて徒歩移動をしました。

平成6年に中村勘三郎による野外歌舞伎が行われた記念の銅像の他、俊寛に関する史蹟も何か所かありますが、観光資源になりうるかは疑問です。また、アフリカ音楽「ジャンベ」で島起こしをしようとていて、島内唯一の義務教育学校で授業に取り入れて、イベントへの参加もしていますが、島民には浸透しているようには思えませんでした。

 夕方には、片道約一時間の徒歩の距離にある無人の露天風呂に入りに行きましたが、更衣室やトイレの設備がありませんので、若い女性の誘客には不向きです。また、かつて飛行場があった場所も訪ねましたが、今は就航していませんでしたので、荒涼としていました。港近くの公園にテントを張り、薩摩焼酎の酔いで、早々に寝てしまいました。

翌日、島の学校も訪問、南北500キロあるという沖縄県境までの離島教育に携わる先生方の苦労を直接聞くことができました。勤務期間の内に最低一度は離島を経験することになっているとのこと、家族を残しての単身赴任、あるいはご主人を鹿児島に残して、お子さんを帯同して赴任する女性の先生もいます。新採で5年の勤務をすることもあるとのこと、「南北500キロの教育」を標榜して学力向上に努めている先生方には頭が下がる思いです。義務教育学校は冬休みで子どもたちの姿はありませんが、児童生徒は21名うち「しおかぜ」留学生が8人いるとのことで、島内の家族が受け入れているそうです。  

島を訪問してからは、奄美や沖縄に台風が接近してもあまり取り上げられない薩摩硫黄島」のことが気になります。学校が児童生徒減で閉校にならないかどうかも心配です。         

「鬼界が島」は決して過去の物語の世界でなく、今も人々が生活している「薩摩硫黄島」です。


<薩摩硫黄島全景:火山島で狭い海岸の縁に集落が1か所ある>
<薩摩硫黄島全景:火山島で狭い海岸の縁に集落が1か所ある>

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