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甲信

6_09 浅間三宿 軽井沢

<ショー記念礼拝堂と胸像:「避暑地軽井沢発祥の地」とある>

日陰にまだ残雪の残る中、軽井沢駅から旧軽井沢の町並みを越え、碓氷峠に出て、横川までの旧道を歩きました。一宿間の20キロ程度なのに、横川に着いた時は、爪先が腫れていました。昔の人が、わらじ履きで旧坂を上下したことに敬服するばかりです。途中アプト式の廃線跡を見学しました。

宿場町軽井沢/軽井沢の英語表記は「KARUIZAWA」です。外国人が発音しやすくするため、宿場名「かるいさわ」から濁音化しました。軽井沢には、読み方にも歴史があります。

観光客で賑わう旧軽井沢は、江戸時代までは、沓掛・追分とともに「浅間三宿」の宿場町でした。中山道でも険路とされる碓氷峠を控えていることから、参勤交代の大名や商人、さらには善光寺詣での参詣人で大いに賑わい、本陣1、脇本陣4の他、多くの飯盛り女を置く旅籠もあったと記録されています。江戸時代初期創業の茶屋鶴屋は、現在もつるや旅館として営業し、文学史に残るような文人たちの定宿となっていました。本陣跡は観光客向けの施設になり、名残を見つけることはできませんでした。

軽井沢は、もともと浅間山の火山灰のうえ高冷地のため、水田はなく、街道稼ぎが中心でしたから、明治になって、伝馬制崩壊後、街道稼ぎの宿場は一気に衰退し、多くが離村したため、かえって新しい新時代の「KARUIZAWA」」となることに幸いしたとも言えます。

避暑地軽井沢/明治21年、カナダ人宣教師ショーが別荘を建てたことから、蒸し暑い日本の夏を避けて滞在する外国人が多くなりました。さらに、明治26年に碓氷峠にアプト式の鉄道が敷設されたことから、日本の富裕層、知識人の避暑地となりました。明治28年、日光、箱根とともに、避暑客相手の高級ホテルが建ち、外国人向けのベーカリも開業しました。

大正期には、ゴルフ場・テニスコート・乗馬クラブなどが開設され、別荘地としての位置を高め、さらに、皇族の滞在も多く、軽井沢のステータス向上につながりました。

戦後の高度成長期になると、別荘開発が一段と進み、当初目指した「質素で清潔」な「国際親善文化観光都市」が変容しつつあります。夏になると、宿場のあった旧道は「軽井沢銀座」となり、アジア系外国人も多く、オーバーツーリズム状態です。

旧軽井沢のショー記念礼拝堂前を通り、芭蕉の句碑を過ぎ、旧道を上りきると茶屋などが残る碓氷峠です。幕末、安中藩士が城下から峠までの30㌔、防具を着装し駆け上がりました。藩士強化策の一環として行われた「安政の遠足(とおあし)」です。また、皇女和宮が降嫁のため、供回り2万人、70キロを超える大行列で峠を越えたという記録が残っています。

旧道を下り、横川駅に着いた時には、荻野屋の「峠の釜めし」は営業終了でした。売店もなく、期待していたビールが買えず、持参した柿ピーと裂きイカだけで我慢をしました。

<碓氷峠熊野神社:県境を挟んで二社あり賽銭箱も別>
<碓氷峠熊野神社:県境を挟んで二社あり賽銭箱も別>

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