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甲信

6_08 中山道 浅間三宿 沓掛(くつかけ)から追分へ

<追分宿入り口:左中山道と右北国街道(善光寺街道)の分岐>

朝の始発に乗り、大宮から高崎に出て、信越線で横川まで行き、鉄道廃止の代替バスで碓氷バイパスを軽井沢に上りました。軽井沢駅からさらに第三セクターのしなの鉄道に乗り継ぎ、中軽井沢駅で下車、「浅間三宿」と言われる中の、沓掛宿から追分宿まで二つの宿場を歩きました。出来るだけ在来線の旅行を楽しむ者としては、魅力的なコースです。

中軽井沢/長谷川伸原作、中村錦之助主役の『沓掛時次郎 遊侠一匹』が上映され、私と同年代の橋幸夫が歌う「沓掛時次郎」もヒットしました。架空の人物ですが、沓掛宿が舞台です。

中山道は、東海道に比べて距離も長く、峠や峡谷沿いの険路であっても、川留めがなく、予定どおり通行できます。幕末、皇女和宮の降嫁の際も沓掛が宿泊場所となりました。

沓掛は、軽井沢と追分の「浅間三宿」の中間にあり、股旅物の舞台になるほど賑わいのある宿場でした。戦後のレジャーブームの中、駅名が中軽井沢駅に変わったことで地域は大きく変わりました。周囲はリゾート施設や大きな別荘地が造成されました。中軽井沢となった沓掛地区には軽井沢町役場や中学校があり、宿場の繁栄の旧跡は少なく、股旅物は連想できません。一歩奥に入れば大きな別荘地が続いています。写真にしたい古い時代のものは見つかりませんしたので、追分宿の写真を掲載しました。

堀辰雄の別荘/学生時代、『風立ちぬ』に憧れ、多恵夫人がご存命であることを知り、堀辰雄の終焉の地となった追分の別荘を訪れました。礼儀知らず学生の突然の訪問に関わらず、丁重にもてなしてくださいました。別荘は、中山道追分宿近くの唐松林の奥にありありました。 

追分は、道の分岐点のことを指し、京に向かう中山道と、善光寺を経て直江津に抜ける北国街道の分岐点になっています。馬子が歌う追分節に「小諸出てみろ 浅間の山にヨー 今朝も煙が三筋立つ」とあり、馬子たちは山を見ながら街道を行き来しました。「信濃追分節」は新潟に伝わり、北前船で日本海の南と北に伝播し、西に向かって「出雲追分」となり、北海道に渡り、「江差追分」になりました。

明治になって、信越線が離れた場所を通過し、追分宿は発展から取り残されましたが、軽井沢の喧騒を避け、志賀直哉、川端康成などが追分宿の脇本陣油屋旅館に逗留、名作を残しています。さらに別荘を建てる作家が多く、中でも堀辰雄は、名作「『風立ちぬ』を追分で執筆しました。闘病の中、「風立ちぬ。いざ生きめやも」と、自分の生を見つめました。

油屋は廃業、堀辰雄の別荘は、付属の建物が建ち町立の堀辰雄文学館となっていました。60年の思い出のままにしておけば良かったと、再訪をやや後悔しました。ただ、「風立ちぬ。いざ生めやも」は、私の心に今も新鮮なまま残っています。

<堀辰雄文学館:本陣の門が移築され違和感も>
<堀辰雄文学館:本陣の門が移築され違和感も>

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