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甲信

6_06 姥捨山と東山道保福寺峠

<姨捨山山頂:高浜虚子「更科や 姨捨山の 月ぞこれ」>

高速道姥捨サービスエリア眼下の棚田は、田毎の月として知られる名所です。さらに、姥捨山の南にある保福寺峠は、奈良時代の東山道の難所で、防人の歌碑が建ち、同じ所に「日本アルプス絶賛の地」の記念碑があり、時を隔てた新旧二つの碑があります。峠に立つと、北アルプスの山並みが見えます。

姥捨山(おばすてやま)/冠着山(かむりきやま)が国土地理院の地図では正式名です。長野盆地の南端に位置し、標高は1200㍍程ですが、周囲に高い山がある中で、三角形の山容が標高以上の高さを感じさせます。

平安時代の歌物語の『大和物語』や説話集『今昔物語』に、妻に責められ、親代わりに育ててくれた姥を山に捨てては来たものの、折からの満月を見て「わが心 慰めかねつ 更科(さらしな)や 姨捨山に 照る月を見て」と後悔し、家に連れ帰ったという一節があります。松尾芭蕉の『更科紀行』にも「おもかげや 姨一人泣く 月の友」という名句があります。更科は姨捨山がある一帯の地域名で、更科そばで有名で、各地に更科を店名にしている蕎麦屋があります。

平地の少ない山間地では、生産年齢を過ぎた高齢者を捨てる「棄老」という風習があり、深沢七郎の『楢山節考(ならやまぶしこう)』は映画にもなり、衝撃を与えました。高齢化社会の中にあって、人ごとでありません。篠ノ井線姨捨駅から冠着山に登り、「爺捨」への心の準備をしてきました。

田毎の月の棚田が、平成11年に農耕地としては初めて国の名勝に指定されました。

保福寺(ほふくじ)峠/奈良時代の官道東山道は、近江から美濃に出て、難所の御坂峠(現在の中央高速道恵那山トンネル上)を越え、伊那谷を北上しました。さらに松本盆地を経由し、保福寺峠を経て、信濃の国府の上田に向かい、その後に碓氷峠を越えて関東に抜けるコースでした。

保福寺峠上に、防人として出征する夫を案ずる妻が詠んだ「信濃路は 今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に 足踏ましなむ 沓(くつ)はけ 我が夫(せ)」(信濃の路は新しく開けたばかりであるから、切り株に足を踏み抜くことがないように沓を履いてください わが夫よ)という万葉集の歌碑があります。

その後、国府が松本に遷り、さらに険阻な保福寺峠越えが避けられ、木曽谷から諏訪に抜けるコースに付け替えられたため、峠越えの官道は荒廃してしまいました。

明治になって、中央線より先に信越線が開通したことから、一時期、峠道は上田から松本への近道として利用されました。明治24年、日本近代登山の祖ともいえるイギリス人宣教師ウェストンが上高地に入る際、峠からの槍ヶ岳を眺めて「日本のマッターホーン」と絶賛し、帰国後『日本アルプス 登山と探検』を表し、日本の山岳を広く欧米に紹介しました。

姨捨山周辺には、国宝の三重塔、重伝建の稲荷山集落などの名所もあります。ただ、、信越線が寸断されたため、青春18きっぷでは新宿から松本に出て篠ノ井線経由になり、遠くなりました。

<「日本アルプス絶賛の地」碑:気づく人がいません>
<「日本アルプス絶賛の地」碑:気づく人がいません>

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