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甲信

6_05 東山道神坂(みさか)峠と麓の園原

<東山道で最も険路で、峠を越える時は神祭りをして超えた神坂峠遺跡>

律令体制が成立し、中央集権国家の誕生とともに、全国を五畿七道に区分しました。五畿は都に近い五国は畿内、その他を七道に分け、街道の名前とともに行政区の区分にしました。下野国は、群馬県が上野とされ都から遠い毛の国で下野とされ、東山道に組み入れられました。東山道の難所、美濃と信濃を結ぶ神坂峠と、麓の阿智村園原地区を訪ねました。

防人の歌/峠という国字ができる前は坂が峠のことをさしました。標高1600メートルにある古墳時代の祭祀跡より鏡や勾玉(まがたま)などが出土していることから、御坂は古くから神の住む場所として崇められて来ました。

御坂を通過する防人や貢物を運ぶ運脚たちは峠が身に旅の無事を祈りました。

大和王権が成じられ立する以前には、荒ぶる神が峠を越える人に危害を及ぼすと信、倭建命(やまとたけるのみこと)も東征の帰路に、峠神の化身白鹿を平らげ、美濃に下り、尾張の妻の元に戻ったと伝えられています。

その後大和王権が確立されると、地方統治のために東山道が整備され、都から地方への文書伝達、蝦夷(えみし:アイヌではない)の反乱鎮圧のための軍隊の移動、反対に、地方から都への貢物や租を運ぶの民から選ばれた運脚などの人々が通りました。防人も運脚も食料は自前でした。

さらに百済支援に失敗し、朝鮮半島からの侵攻に備えて、九州防御のため、東国で徴発された防人たちが峠を越えていきました。万葉集防人歌に「ちはやぶる 神の神坂(みさか)幣(ぬさ)まつり いはふ命は 母父(おもちち)のため」と、幣を奉り無事を祈りました。「いはふ」は無事を祈ることで、母を「おも」と読むのは万葉時代の古い読み方です。下野の防人も「天地の 神を祈りて 幸矢(さつや)貫(ぬ)き 筑紫の国を さして行く吾は」と、神に祈り、矢を背に負って、九州を目指しました

中央高速道も神坂峠の下をトンネルで抜け、東山道と同じルートで東に向かいます。

強欲な国守/平安時代末期に書かれた『今昔(こんじゃく)物語』に、信濃の国司が帰任の際、神坂峠の険路で馬もろとも谷に転落した説話が載っています。

供の者たちは、国守の命さえ危ないと危惧していると、下から籠を下ろせという声がしました。籠を引き上げたところ、平(ひら)茸(たけ)が山盛り入っていました。国守は崖の途中で木にしがみつき、平茸を採っていたのです。さらに国守を引き上げてみると、両手に平茸を持ち、採り残したものが惜しいと、悔しがるというエピソードです。強欲な国守が多いことを皮肉的に書いたものでしょうが、神坂峠が選ばれたのは、都人にも広く知られていた険路だったからでしょう。都の下級貴族にとって国守になることは願ってもないことで、紫式部の父も越前の国守でしたし、『更級日記』の父も上総の国守でした。

峠の麓阿智村では東山道を生かした地域づくりが行われています。園原は『源氏物語』の巻名になった「帚木(ははきぎ)」の歌枕の地となっています。義経ゆかりの駒繋ぎ桜もあります。神坂峠までは、高速道路の園原ICで下りて、ゴンドラとリフトを乗り継いで行くことができます。御坂峠と麓の神さびた園原の集落では東山道の雰囲気を味わうことができます。

下野の貢物を都に運んだ運脚の人たちの苦労が分かります。

<阿智村園原:2度目の訪問で駒繋ぎの桜の開花と出会えた>
<阿智村園原:2度目の訪問で駒繋ぎの桜の開花と出会えた>

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