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甲信

6_10 南塩と北塩 信州塩の道 

<小谷村の牛方宿:白馬村までトレッキングルートが整備されている>

内陸部の信濃では、塩の確保は生活ばかりか、戦略的にも重要でした。「敵に塩を送る」という故事も越後から信濃方面に塩を送ったことに由来します。塩尻市は、日本海側の塩と太平洋側の塩の終点からの地名由来だそうです。塩の道を日本海側と太平洋側から辿ってみました。

日本海の北塩/森鴎外の『山椒大夫』には、安寿姫が山椒大夫にさらわれて、潮汲み労役に酷使されていることが描かれています。瀬戸内の入浜式に対し、日本海側では粘土で突き固めた土の上に砂を敷いた塩田に、桶で海水を汲み上げる揚げ浜式のため、人手を必しました。

能登塩が中心でしたが、江戸時代中期以降は瀬戸内海の入浜式で大量に製塩された「赤穂」や「竹原」から北前船で運ばれるようになりました。

 北塩の「塩の道」は、糸魚川・静岡断層線沿って、姫川の急崖を迂回しながら国境を越え、小谷(おたり)から白馬、大町を通り松本に達します。牛歩の喩えどおり歩行速度は遅いものの、「道草」だけで飼料は不要です。長距離輸送に耐え、急坂の上下にも強いことから、北塩の輸送には牛が用いられました。雪の深い冬場は人の背による歩荷(ぼっか)に頼りました。江戸時代、特に内陸の松本藩は、塩の管理に厳重で、藩境の塩尻を越えて他藩尾諏訪方面には塩を送りませんでした。

塩の道からは塩ばかりでなく、文化も移動します。上高地を奥宮とする穂高神社の祭神には北九州の安曇(あずみ)族が祀られています。諏訪大社の祭神も出雲の一族です。

大糸線の南小谷駅から白馬駅に掛けて塩の道は、牛宿も復元保存され、北アルプスの山々と路傍の石仏を見ながら歩ける、歴史散歩の絶好のコースです。

三河・遠江の塩/信州味噌は、塩の採れない内陸の伊那や諏訪地方で醸造されます。原料となる塩は三河湾の吉良の饗場(あいば)で製塩され、三河の足助(あすけ・現豊田市)に運ばれ、梱包されて「足助塩」として、いくつもの峠を越えて伊那谷に運ばれます。饗場塩は苦汁(にがり)が少なく、岡崎の八丁味噌や信州味噌に使われました。

遠州灘の御前崎近くの相良(さがら)の塩は、天竜川で遡行し、陸揚げ後は3000㍍の山が連なる南アルプス(赤石山脈)の麓の断層地帯に沿って大鹿(現飯田市)から高遠(現伊那市)を抜けて諏訪方面へ出る200㌔の道が中心です。この道は武田信玄の三河侵攻ルートに当たります。

南信への塩は、荷主と直接契約をした馬方によって、中馬(ちゅうま)という数頭の馬が牽かれ、安価に、しかも大量に運ばれ、信州の醸造を支えました。さらに南信濃の山間の村々にも行き渡りました。中継地足助の町は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

現在、中馬道の一つにあたる青崩(あおくずれ)峠は崩落が激しく通行止めですが、浜松から飯田への三遠南信道のトンネルが貫通しました。南塩の運ばれた道筋も大きく変わることでしょう。

<豊田市足助の塩蔵:マンリン書店>
<豊田市足助の塩蔵:マンリン書店>

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