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甲信

6_01 信州の峠 野麦峠と権兵衛峠

<「あゝ飛騨が見える」:背負子に背負われ政井みね>

長野県民歌『信濃の国』に「信濃は十州に連なる国にして…松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平…」とあります。周囲を10か国と接し、さらに4つの盆地も高い山で分けられていますから、人も物も峻険な峠を越えなければなりません。今回は信州の二つの峠です。

野麦峠/高山市を中心とする飛騨地方は岐阜県に所属しますが、かつては松本に県庁を置いた筑摩県の一部の時期もあり、古来より峠を通して人も物も移動しました。松本一帯で正月に欠かせない鰤(ぶり)は、富山から高山を経由して、野麦峠を越えて信州に届けられたので、「飛騨鰤」と言われています。

江戸時代、飛騨一国が幕府直轄領で、他藩に比べて年貢が高く、商品経済の進展により、農村は商業資本に牛耳られて疲弊、高山の富商を打ち壊す一揆がしばしば起こりました。

明治になって、富国強兵の政策下、輸出用の製糸工場が諏訪に作られ、飛騨の貧農の子女が周旋人に連れられ、野麦峠を越えました。工女たちの生活は、山本茂美の『あゝ野麦峠』に描かれていまが、肺結核になるものが多く、働けなくなると帰郷させられました。信州と飛騨を分ける野麦峠の頂上には、乗鞍岳を望んで「飛騨が見える」と言って息絶えた妹と、妹を背負う兄の像が建っています。

商人の華やか祭りや、豪壮な店蔵を構える繁栄は周囲の農村の疲弊のうえに成り立っている例は飛騨の高山や古川ばかりではありません。峠下の野麦集落を訪れた際、野麦は飢饉の際に利用したクマザサの実だと知りました。峠一帯はクマザサに覆われています。

野麦街道は、主要流通路から離れ、その分お助け小屋などの史跡が残っています。

権兵衛峠/伊那節に「木曽へ木曽へと積み出す米は 伊那や高遠の涙米」とあります。江戸時代、中山道の木曽11宿は多くの旅人が往来し、大量に米が消費されたため、伊那谷から木曽山脈(中央アルプス)を越えて馬の背で積み送られました。

伊那は高遠藩内藤氏の治世下にあり、歴代藩主は江戸屋敷の造園など奢侈に走り、藩政をないがしろにしたため財政が破綻し、商人によって年貢米は押さえられ、領民は自分で作った米さえ食べられなかったと言います。それが「涙米」と言う歌詞になりました。

伊那と木曽を結ぶ難路が「権兵衛峠」です。江戸時代に開削した古畑権兵衛の功績を称えて峠名にしました。今は高規格道路の権兵衛トンネルが抜け、両地区は隣町の感覚です。

東京新宿は内藤新宿と言い、新宿御苑は内藤氏の江戸下屋敷の跡にあります。

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