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関東

7_02 幕末の争乱 桜田門外の変と生麦事件

<正式には外桜田門:江戸城でも異例の大きな城門>

幕末の激動の時代を知るため、東京駅から皇居の桜田門へ、さらに一周5キロのジョギングコースを歩き、次に、品川に出て京急線に乗り、「生麦事件」の現場に行きました。その後横浜に行き、教え子と50年ぶりに再会、中華料理を楽しみました。

桜田門外の変/幕府に反感を持つ朝廷側や尊王攘夷派を一掃するため、大老井伊直弼によって「安政の大獄」が断行されました。吉田松陰や橋本左内を始め、多くの俊英が刑死し、西郷隆盛なども落命寸前の危機に陥りました。

一方で、井伊大老と対立する水戸藩の一部過激派は、薩摩藩士1名を加え、総勢18名で大老の暗殺計画を実行、1860年(安政7)3月、登城途中の大老を襲い、首を打ち取りました。「桜田門外の変」です。これにより幕府の権威は一気に失墜しました。

さらに2年後の1862(文久2年)、再び急進的尊王攘夷派の水戸藩士により、皇女和宮降嫁の公武合体を進めた老中安藤正信が登城途中の坂下門外で襲撃されました。この計画には宇都宮藩の儒学者大橋訥庵(とつあん)が主導的役割を果たしました。その後も水戸藩内では、勤皇と佐幕の思想対立が激化、維新後に貢献できる人材を多く失いました。

桜田門はジョギングコースになり誰でも通れますが、坂下門は正月の一般参賀などの時の開門で、普段は近づけません。皇居を回るコースには歴史が凝縮されています。

生麦事件/新しい時代が間もなくという1862年(文久2)、薩摩藩の島津久光が江戸から帰路、東海道の生麦村に差し掛かった際、一行の前を騎乗のままイギリス人が横切ったことから、護衛の藩士が切りつけ、1名を殺害し2名に重傷を負わせました。

この事件に関し、イギリスは条約に従い賠償金を要求しましたが、薩摩藩は払わず、首謀者処罰にも応じませんでした。そのことから、翌年に「薩英戦争」が勃発しました。薩摩藩はイギリス海軍の力を目の当たりにして、攘夷の代わりに、イギリスを手本に富国強兵へ舵を切り、長州とともに新しい国の枠組みづくりの先導になりました。

京急生麦駅で下車、旧東海道を横浜方面に向かうと、首都高速道路の下、しかも三方をビール会社のフェンスに囲まれて「生麦事件碑」が建っています。今は横浜市鶴見区で、東京にも横浜にも通える至便地になっています。身近なところに、日本の歴史が動いた場所があります。東京や横浜に行った折には少々寄り道すれば思わぬ発見があり、日本史の教科書にばったり出会った感動を覚えます。

<三方はフェンス、上は首都高が通過する>
<三方はフェンス、上は首都高が通過する>

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