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関東

7_01 『おくのほそ道』旅立ち 深川と千住

<芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)>

『おくのほそ道』は、元禄2(1869)年の旧暦3月に江戸深川を発って、日光街道を北上、東北から北陸を経て美濃(岐阜県)大垣まで、600里(2400㌔)、5か月余の旅の紀行文です。今回は、深川の芭蕉庵跡と、「矢立のはじめ」の千住を訪ねました。

深川芭蕉庵/芭蕉は、29歳で伊賀上野から江戸に出て、俳諧で頭角を現し、数年後には宗匠(そうしょう:師匠)の地歩を固めました。しかし、37歳の時、江戸市中から身を引き、隅田川の対岸の草庵に転居しました。門人から芭蕉の株を贈られたことから、芭蕉庵と名付け、俳号も芭蕉としました。

芭蕉庵は、天和2年、芭蕉39歳の時江戸の大火の際に類焼しましたが、翌年に場所違えて再建されました。しかし草庵には長く住むことなく、その後も吉野、高野、須磨、明石などを漂泊し、『野ざらし紀行』、『更科紀行』などを著し、俳諧の新たな高みのに到達しました。

『おくのほそ道』の旅に当たり、「住める方は人に譲り」と、旅費の工面とともに、再び生きて帰らないという決意で、芭蕉庵を売却しました。その後、旅を終えてもしばらくは江戸に戻らず、伊勢や関西にとどまり、第三次の草庵が落成したことから江戸に戻りました。しかし、長らく留まらず、再び旅に出て、大坂で亡くなり、遺言で大津の義仲寺に葬られました。

その後芭蕉庵は人手に渡り、幕末頃の混乱で草庵のあった場所は不明となり、芭蕉稲荷神社が最初の芭蕉庵跡とされています。江東区立の芭蕉記念館は少し離れた所にあります。

深川の隅田川河畔には、芭蕉関係の史跡も多く、他にも江戸情緒が随所に残っています。

「矢立ての初」千住/芭蕉は門人曾良を伴い、深川を船で発ち、日光街道の一番目の宿場千住から旅を始めます。多くの弟子たちに見送られ、離別の涙を流しますが、その際の句は、「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪(なみだ)」で、「是(これ)を矢立(やたて)の初として」と、旅の第一の句としました。矢立は、筆を入れる筒の先に墨壺がついた携行用の筆記具です。

  千住宿は、日光街道(宇都宮以北の奥州街道を含む)の宿場として、東海道の品川、中山道の板橋、甲州街道の内藤新宿とともに江戸四宿のひとつで、その中で最大の宿場でした。千住から水戸街道も分岐し、潮の干満で遡行が可能なことから、水陸の結節点で、広重や北斎の絵にも賑わいの様子が描かれています。現在もJR常磐線と東武伊勢崎線、さらには地下鉄線も乗入れ、宇都宮から東武線利用者には身近な駅になっています。

隅田川に架かる千住大橋のたもとには「奥の細道矢立の初めの地」の碑が建っています。旧街道沿いには江戸の名残を残す建物が多く、宿場の雰囲気を味わうことができます。

<矢立の初めの地(千住大橋たもと)>
<矢立の初めの地(千住大橋たもと)>

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