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関西

3_09 若狭熊川宿を経て近江の港町今津へ

<重伝建の熊川宿:多くが空き家であった>

何度も琵琶湖周辺を訪れ、その都度風景ばかりでなく、小さな集落にも関東にない歴史の厚みを発見します。今回は、若狭から熊川宿を経て、琵琶湖北西岸今津への古道の旅です。

熊川宿/小浜は、古くから若狭の政治経済の中心として、京都と日本海側を結ぶ物流の起点として栄え、日本海側きっての港湾都市となりました。江戸時代には、北陸や東北特産品、さらに蝦夷地のニシンや昆布などの海産物が陸揚げされ、京都や大坂に運ばれました。

若狭側の最後の宿場が熊川です。熊川は、陸路京都まで人の背で急送される鯖(さば)街道と、米穀などを琵琶湖の湖上交通に繋がる「九里半街道」と呼ばれる街道の分岐点です。熊川には小浜藩の代官所が設置され、通行人改めや産物への徴税に当たりました。

熊川宿には今も富商をはじめとする建物が軒を連ね、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。ただ、空き家が目立ち、文化財保護と維持管理の難しさが見て取れました。

同じ時期に回った丹後半島の伊根の舟屋は、天橋立のツアーとセットにしやすいことから、外国人によるオーバーツーリズム状態で、交通渋滞、食事を摂ることさえ困難でした。他地区でも、有名観光地と組み合わせが難しい山間の重伝建エリアの多くは、維持困難な空き家が多くなっています。北陸新幹線延伸を起爆剤に、地域の活性化に繋がって欲しいと願っています。

湖北今津湊/琵琶湖周航の歌に「今日は今津か 長浜か」とあり、集落には「琵琶湖周航の歌資料館」もあって、今津は琵琶湖西北岸の中心地でしたが、今は合併により高島市の一部です。

今津は、江戸時代をとおして加賀藩の飛び地で、代官所が置かれ、加賀藩と結びついた近江商人が独占的に商品を扱い、今津湊から湖上輸送で大津に運ばれ、京都に陸送されました。

さらに、今津は竹生島への参詣客の発着場としても賑わいました。

しかし、江戸時代中期以降、北前船が大型化して西回りとなり、瀬戸内から大坂に直接向かうようになり、陸路で琵琶湖に回送される優位性が激減、湖上交通は衰退してしまいました。

江戸時代からの古い家並みと、高波から集落を守る波除け石垣が1㌔にわたってつづき、往時の賑わいを今に伝えています。

現在、市街地の中心を高架で湖西線が通り、駅前には新しいビルが建ち、湖上輸送で栄えた古い街並みが消えつつあります。伝統的な建造物の保存と、町の開発のバランスをどうするか、熊川とは違った難しさがあることを実感しました。

古街道は、公共交通の不便地が多く、廃道を歩くこともあります。地図から消えてしまっている道もありますから、下調べが不可欠です。

<今津から南下した高島市鵜川:白髭神社湖上鳥居>
<今津から南下した高島市鵜川:白髭神社湖上鳥居>

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