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関西

3_06黒潮が育んだ二人の偉人 紀文とヤマサ

<紀伊國屋文左衛門之碑:湯浅町>

紀伊半島は、黒潮の流れによって関東地方とつながり、房総には勝浦や白浜など紀州由来の地名があります。南紀を旅して江戸時代の二人から人生のあり方を考えました。

紀伊國屋文左衛門/紀伊半島はリアス式海岸が続き、温暖な気候のため古くから果樹の栽培が盛んで、今でも「有田(ありだ)ミカン」や「南高梅」などが広く知られています。

江戸時代中期、湯浅村(現湯浅町)出身の文左衛門は、ミカンを大量に買い入れ、江戸で消費される正月に合わせて嵐の中を回漕、「ミカン大尽」となったと伝えられています。

その後、材木を扱い、幕府の御用商人として財力を蓄え、その名も一国の名を冠する紀伊國屋となり、略して「紀文」と呼ばれ、江戸市中憧れの人となりました。浮世絵にも描かれ、遊郭吉原で豆の代わりに小判を撒くなどして蕩尽してしまいました。なお食品会社紀文も紀伊國屋書店も文左衛門とは関係ないそうです。

湯浅駅前には荒海に乗り出す門左衛門のモニュメントがあり、出生地跡に、パナソニック創業者松下幸之助によって建てられた記念碑があります。松下は一代で財を成したという点で共感を覚えたのでしょうか。しかし、財力や地位を得てからの生き方は違っています。

ヤマサ醤油と稲むらの火/江戸時代まで、関東では醸造技術が未熟で、酒は灘や伏見、醤油は紀伊半島が醸造の中心地でした。上等なものは、専用の樽廻船(たるかいせん)によって「下りもの」として江戸に運ばれました。反対に品質が悪いものは「下らないもの」です。

紀伊半島の広村(現広川町)発祥のヤマサ醤油は、江戸時代に大消費地を控えた銚子に本拠を移し、利根川水運を利用して、江戸屈指の醸造元となりました。

蔵元の浜口家は、江戸で得た財を郷里に還元することを家訓とし、中でも7代目の梧陵(ごりょう)は、幕末の安政南海地震に遭遇し、稲むら(藁の山)を燃やして地域住民を早期に避難させたことで知られています。小泉八雲の『稲むらの火』で外国にも紹介されました。 

 梧陵は地震の経験から、広村の防潮堤建設に注力し、堤防には蝋燭の原料となるハゼノキを植え、後々の補修費に充てました。その後、昭和までの数度にわたる津波に際しても、地域住民を守って来ました。浜口家旧宅は記念館となり、早期避難の教育の場になっています。

明治以降、政界でも活躍、和歌謝県議会議長に就任、和歌山県立耐久高校の前身私塾耐久社を創設し後進の育成にも努めました。耐久高校は甲子園にも出場しました。

後世の評価は対照的ですが、南紀の黒潮によって育まれた点で二人は共通しています。

<浜口梧陵銅像:広川村>
<浜口梧陵銅像:広川村>

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