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関西

3_04舞鶴港『岸壁の母』

<赤煉瓦倉庫:ファッショナブルな衣類のショップに若者が多くいた>

北陸新幹線で敦賀まで行って小浜線に乗り換えると終点が東舞鶴です。江戸時代の城下町西舞鶴には舞鶴線に乗り換えて一駅です。舞鶴湾は人字型に大きく入り組み、西と東の舞鶴は、一駅5キロの距離ですが、それぞれ違った町並みを形成しています。

舞鶴市と東舞鶴市/舞鶴は、江戸時代は田辺藩牧野氏の3万5千石の城下町で、舞鶴と言えば城下町を指しました。小さな岬を挟んだ東舞鶴は寒村に過ぎませんでしたが、明治24年に軍港となり、舞鶴鎮守府が置かれ、日本海側で唯一の重要軍港となりました。初代総督に東郷平八郎が着任しました。それに伴って軍人軍属や家族の移住で人口が急増、計画的な街づくり行われ、赤煉瓦の倉庫群も建設された、人口も西舞鶴を越すほどになりました。東郷が、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた軍功は今に語り伝えられています。

西舞鶴は独自に市制を施行し舞鶴市となりましたが、人口の増えた東舞鶴も市に移行し、狭い湾内で二つの市が誕生し並存しました。しかし、軍部の強い働きかけで両市は合併して新制舞鶴市となりました。戦後、西舞鶴では分離運動が起き、「舞鶴市」としようと住民投票をしたところ、賛成多数であったが、府議会の承認が得られなかったという歴史があります、

終戦により鎮守府が解体されて東舞鶴の人口は急減しましたが、29年に自衛隊が発足すると、旧来の賑わいを取り戻し、西舞鶴地区より人口も多くなり、市役所も東舞鶴側にあります。戦前に造られた12棟ある赤煉瓦の建物の多くは公開され、中にはお土産などのショップとなって、観光客で賑わっています。外部の人が舞鶴と言えば東舞鶴を連想します。

岸壁の母/『岸壁の母』は私たちの世代にはなじみの歌です。舞鶴港には、終戦後12年にわたって、大陸や朝鮮半島から66万人が引き上げてきました。満州ではソ連の侵攻後困難を極め、食糧難、衛生面、治安の悪化などで帰国が叶わなかった人も多く、中には集団自決をする開拓地もありました。さらに軍人などはシベリアをはじめロシア各地に抑留され、亡くなる人も多く、引揚船での国の帰国政策は昭和32年まで続きました。

この間、昭和25年から、引揚船の情報があると、遠い東京から「今日も来ました」と、6年間通い続けた実在の『岸壁の母』がいました。しかし、昭和29年に戦死広報が発行され、舞鶴通いも終わりました。同じ年に菊池章子の歌がラジオで流れ、「もしや もしやと」のフレーズでは多くの国民が涙しました。私たちの世代は二葉百合子の浪曲調のもので聞き知っています。NHKの紅白歌合戦にも出場しました。

東舞鶴に岸壁が復元され、舞鶴港が見える高台には記念館も建てられています。終戦後80年、『岸壁の母』の歌は若い世代は聞き知っていないと思われます。レンガ造りのショップには多くの人が訪れていましたが、岸壁の方を訪れる人はいませんでした。

<引揚船の復元岸壁:雨の日で誰もいない寂しい風景>
<引揚船の復元岸壁:雨の日で誰もいない寂しい風景>

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