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関西

3_19 木曽義仲と芭蕉の墓 膳所義仲寺(ぎちゅうじ)

<木曽義仲と巴御前の像:木曽路宮ノ越宿の義仲館>

松尾芭蕉の墓は大津市膳所(ぜぜ)の義仲寺にあります。義仲と芭蕉は結びつかないように思いますが、狭い境内に背中合わせのようにして墓石が建っています。

旭の将軍の最期/平家一族が栄華を極めている時に、木曽(源)義仲は北陸道倶利伽羅峠で平家を打ち破り、「朝日の将軍」と言われ破竹の勢いで上京、平家を都から西下させます。征夷大将軍になって天下を握ったかに見えましたが、情報が少ないうえ、人心を把握する資質に欠け、後白河法皇の策謀により、一転して鎌倉の頼朝の命により、義経軍に追い落とされて、最期は琵琶湖畔で討ち取られます。

この場面は『平家物語』で「木曽の最期」として有名な場面です。乳兄弟(ちきょうだい)の今井四郎兼平に自害するよう勧められたものの「日ごろは何とも覚えぬ鎧が重うなったぞ」と弱気になり、敵に首を掻かれ、琵琶湖畔の粟津で敗死しました。その際の今井の壮絶な死もよく知られている部分です。

義仲の出身である木曽路のひとつ宮ノ越宿にある義仲館の前には鎧に身を固めて長刀を持った愛妾巴御前と床几に座る義仲の像が建っています。天下人になろうという強い意志を感じます。勇猛であるが故に知略に欠け、京都の公家たちに翻弄され、たちまち敗者となります。義仲の死後、巴御前が尼となって供養した場所が義仲寺だとの説があります。

芭蕉は『おくのほそ道』の旅でも義経の旧跡を訪ねて「時の移るまで涙流し侍りぬ」と非業の死を遂げた英雄に芭蕉の敗者に関する強い共感です。

芭蕉の墓所/芭蕉は『おくのほそ道』の旅を終えると10か月間、琵琶湖畔の後援者の庵である玄住庵、さらには巴御前に由来するという義仲寺無名庵に滞在します。その後江戸にも行きましたが、再び近江に戻り「行く春を 近江の人と 惜しみける」と、晩年の2か年のほとんどは近江で過ごします。近江八景の堅田の落雁を詠んだ「病む雁や 夜寒に落ちて 旅寝かな」と病む雁を衰えた自分に見立てた句もあります。大坂の弟子宅で亡くなりますが、遺言による大津膳所の義仲寺に埋葬されました。辞世の句は「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」です。旅の焦がれていた芭蕉の最期にふさわしい句です。

義仲寺は市街地の中にあり、今では近江八景望むことは出来ませんが、狭い境内には「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」と弟子が詠んだように、歴史に大きな足跡を残した二人の墓があります。琵琶湖周辺には史跡が密集していて、何度訪ねてもその都度発見があります。義仲寺は膳所駅の近くですし、その先には紫式部ゆかりの石山寺があります。

<木曽義仲公の墓:境内には芭蕉の墓と巴塚がある>
<木曽義仲公の墓:境内には芭蕉の墓と巴塚がある>

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