top of page

関西

3_17 琵琶湖畔 玄住庵と義仲寺

<時間外でしたので閉門でした>

松尾芭蕉の墓は、大津市中心膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)にあります。木曽義仲と芭蕉は結びつかないように思いますが、狭い境内に二つの墓石が建っています。

玄住庵/芭蕉は、『おくのほそ道』の旅を終えた後、琵琶湖畔の玄住庵(げんじゅうあん)に滞在、さらに木曽義仲の墓のある義仲寺無名庵に移ります。その後江戸にも行きましたが、再び近江に戻り「行く春を 近江の人と 惜しみける」と、晩年の2年のほとんどを近江で過ごしました。『玄住庵記』には「蓬(よもぎ)根笹(ねざさ) 軒を囲み、屋根漏り壁落ちて狐狸(こり)ふしど(寝床)を得たり。玄住庵といふ」とあり、荒れ果てた建物を「軒端葺(ふ)き改め、垣根結い添へなど」して住み、庵からは瀬田の唐橋、木曽義仲最期の粟津の松原も望めるとも記しています。

さらに『玄住庵記』には「万のことに心も入れず、つひに無能無才にして此の一筋につながる」とあり、仕官もせず、仏道に精進することもなく、当時はまだ主流でなかった俳諧を「横道」と言いながら、そこに命をかけてきた自負がうかがえます。

一方、老い先長くないことを自覚し、人生を「夢のごとくして またまた玄住なるべし」とも述懐し、近江八景の堅田の落雁を自らの身になぞらえ、「病む雁の 夜寒に落ちて 旅寝かな」と詠んでいます。ただ一羽だけ群から離れた病む雁は、孤高を保つ芸術家の姿そのものです。  

『おくのほそ道』は芭蕉の代表作ですが、最晩年の『玄住庵記』は、芸術に関わりのない我々凡人にも指針となり、精進してこなかった己への反省にもなる名文です。

義仲寺/芭蕉は、大坂の訪問先の弟子宅で亡くなりますが、遺言により義仲寺に埋葬されました。辞世の句は「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」だとされ、旅に焦がれていた芭蕉の最期にふさわしい句です。義仲寺を墓所と定めたのは、『おくのほそ道』の旅中、源義経の旧跡平泉の高舘を訪ねた際、「時の移るまで涙流し侍(はべ)りぬ」とあるように、非業の死を遂げた敗者に強い共感があったからだと思います。

義仲寺は市街地にあり、今では近江八景を望むことは出来ませんが、狭い境内には「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」と芭蕉の弟子が詠んだように、二人の墓の他に、義仲の愛妾巴御前(ともえごぜん)の塚があります。JR膳所駅から徒歩で行くことができます。

義仲寺の近くには、紫式部ゆかりの石山寺、しばしば合戦の場となった瀬田の唐橋もあり、芭蕉のような高邁な志はなくても、旅によって心を耕すことの出来る格好の場所です。

<義仲寺にある芭蕉翁の墓>
<義仲寺にある芭蕉翁の墓>

bottom of page