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関西

3_15 飛鳥甘樫の丘と多武峰談山神社

<甘樫丘から明日香村夕景>

奈良の多くの古寺社を訪ねると、政権維持や一族安寧を祈願し、農民の過重な負担で建立されたものが多く、仏像を拝観しても、足元に踏みつけられている天邪鬼(あまのじゃく)に目が行き、心穏やかにはなれません。それでも、奈良には特別な場所が多く、今回は、大化の改新で藤原の姓を賜り、律令制の基礎を築いた藤原鎌足に関わる飛鳥と多武峰談山神社(とうのみねたんざんじんじゃ)を訪ねました。 

甘樫の丘/明日香村を歩くと、教科書に出てくる場所に出会います。大化の改新のクーデターがあった伝板蓋宮(いたぶきのみや)跡、さらに石舞台から飛鳥寺に回り、夕方、門限のない甘樫丘(あまかしがおか)に上りました。

6世紀に大陸から新しい文化が導入され、仏教を受容する蘇我馬子は、対立する物部氏を滅ぼし、天皇の外戚として権力を掌握し、皇位継承についても干渉するようになりました。

596年、馬子によって飛鳥寺が建立され、大伽藍の完成とともに釈迦如来像を安置して蘇我氏の氏寺としました。今に残る日本最古の仏像「飛鳥大仏」です。その後。馬子の孫入鹿(いるか)は、聖徳太子の子山背大兄王(やましろのおおえのおう)をも殺して、聖徳太子の一族を排斥し、政権の独占を図ります。

しかし、645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が中臣鎌足らと図り、板蓋宮で入鹿を暗殺します。乙巳(いっし)の変です。この乱で、入鹿の父蝦夷(えみし)は、甘樫丘の麓に構えていた邸宅に火を着け自害し、蘇我氏は滅亡します。翌年には改新の詔(みことのり)が発されて、大化となり、歴史の新しい画期となりました。

藤原摂関政治のきっかけになった「大化改新」をどう評価するか、歴史は勝者に焦点が当たります。『日本書紀』も権力者側に立って記述されたものです。本当に「改新」と呼べるのかどうか。甘樫丘から飛鳥盆地を見下ろすと、家々の屋根が夕日に照り映えていました。

談山神社(たんざんじんじゃ)/奈良盆地の南東端にある桜井市は、近鉄大阪線と桜井線で結ばれる交通の要衝で、一帯は古代大和の中心でした。桜井駅からバスに乗り30分ほどで多武峰談山神社に着きます。ちょうど11月の第二日曜日であったことから、烏帽子(えぼし)と狩袴(かりぎぬ)の装束を着ての蹴鞠祭りが行われていました。背後の紅葉と十三重の塔が映えて、西の日光と言われるのも納得です。

中臣鎌足らが中大兄皇子と蹴鞠の会で密儀を凝らしたことから「談山」の地名が起きたと言います。このことで中央集権国家が形作られました。鎌足は中臣から藤原姓を賜り、死後に遺骨の一部が多武峰に改葬され、鎌足の子息たちにより十三重の塔が建立され、多武峰妙薬寺となりました。平安時代には総社談山権現が創建され、神仏習合が進みました。

藤原氏と権勢とともに発展したことから、権力闘争にも巻き込まれ、藤原氏の氏寺であった興福寺とは荘園をめぐってしばしば対立し、吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)とも対立、さらに、室町から戦国期にかけては、大和の有力武将の介入も受け、一山が焼き打ちに遭いました。それでも、鎌足の尊像だけは難を免れ、今日に伝わっています。

江戸時代、家康により本殿などが造替され、今日まで多くの重要文化財が伝わっています。神社になったのは、明治維新の神仏分離令以降です。山間にあったせいか、奈良の他の寺社より神仏習合の跡が強く残っています。蹴鞠を始め、多武峰で本物の奈良に接しました。

<談山神社:蹴鞠祭>
<談山神社:蹴鞠祭>

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