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関西

3_11 城崎温泉と小説『城の崎にて』

<城崎温泉の町並み>

稲刈りが終わったことから、古い教え子たちと山陰名物の蟹の解禁に合わせ、さらに但馬牛の美味を味わい尽くしたいということで、兵庫県の城崎温泉へ出かけました。

外湯の温泉/城崎温泉の開湯は1300年前、江戸時代には6か所の外湯と63軒の宿屋があったと記されています。湯はすべて外湯の共同浴場で、内湯はなかったということで、これが城崎温泉の今日の温泉街の原点です。

明治43年に山陰本線の開通により、京阪神からの来湯者が増え、温泉街が形成されました。そんな中、大正14年に北但震災に伴う火災で温泉街が壊滅状態になりました。まず外湯の復興から始まり、旅館や土産物屋などが共存共栄できる温泉街が再現されました。

しかし、昭和になって内湯を設ける旅館が出現し、長い間の訴訟の末、内湯の制限、さらには旅館の大型化をしない、館内で土産を売らないことによる外湯中心の形態が整えました。7か所の外湯を、外国人も浴衣を着て、下駄をはいて歩き、お土産を買い、食事を摂っていました。大資本が客を囲い込み、独り勝ちするのでない城崎温泉から学ぶことがありました。

但馬牛の値段に絶望、蟹は細い足3本だけで済ませました。米の高騰で財布の紐が緩んだ同行者たちは、年金生活者の私に遠慮したため、美味を求める温泉旅行の当てが外れたに違いありません。

『城の崎にて』/温泉名は城崎ですが、小説は『城の崎にて』です。志賀直哉は、大正2年、山手線にはねられて重傷を負い、養生のため城崎温泉に3週間ほど滞在します。

主要人物は「私」一人だけです。事故を経験したことから、ハチの死、串に刺されて逃げ惑うネズミ、さらに単に驚かそうとして投げた石が偶然にもイモリに当たってしまうという小動物の死をとおして、死と生とは対極でなく、自分が生きていることも偶然だと自覚します。温泉滞在を契機に長編小説『暗夜行路』など名作を執筆します。

城崎温泉には志賀直哉を中心とする「城崎文芸館」の他、20余人の文学碑があります。

高校の教科書に『城の崎にて』が掲載されていました。10代後半の生徒に、清澄な心境小説に見る生と死について理解してもらえたか、全く自信がありません。  

作者が散歩した河畔に立って、もう少し違った教え方ができたかと反省しました。

<志賀直哉文学碑:城崎温泉街>
<志賀直哉文学碑:城崎温泉街>

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