top of page

関西

3_01 『湖(うみ)の琴』と古戦場賤ケ岳(しずがたけ)

<文字通り鏡のような夕暮れの余呉湖>

滋賀県の旧国名は、琵琶湖が都に近い淡海(あわうみ)であることから近江(おうみ)となりました。今回は琵琶湖の北の余呉湖(よごこ)と古戦場賤ヶ岳を訪ねました。

余呉湖/余呉湖は賤ヶ岳を挟んで琵琶湖の北側にあり、周囲6キロの小さな湖です。地図でも注意しないと見逃してしまいますが、水上勉の小説『湖の琴』の舞台です。  

生糸工場に働きに来ていた若狭出身の若い2人が悲恋の末、深い余呉の湖に沈んでいくという物語で、映画にもなりました。若狭の貧しい境遇で育った作者が紡ぎ出した長編です。

小説は、余呉湖に残る日本最古の羽衣伝説を下敷きにしているとも言われています。羽衣を隠された天女が天に帰れずこの地で暮らし、その子孫が湖北一帯を開拓したという伝説です。これは、渡来系の人たちが養蚕を伝えたこととも関わりがあると思われます。今も日本の和楽器の弦のほとんどは、余呉湖周辺の生糸で作られます。

余呉湖は三方を山に囲まれ、流入する川がない閉鎖湖で、波静かなため「鏡湖」とも呼ばれています。日が落ちると青黒く静まり、伝説や小説が現実の世界のように思われてきました。

余呉湖一帯は奈良や京都と越前を結ぶ北陸道が通じる要衝で、古来様々な合戦があり、日本の歴史が動いた場所です。湖畔には、幾多の合戦の災禍から自衛するため、密集した小さな集落があり、周囲の風景に溶け込み、いっそう歴史の重みを感じさせます。

賤ヶ岳/ 羽柴秀吉が天下統一を果たすため、重要な戦いが行われた山が二つあります。1か所は山崎の戦いが行われた天王山、もう1か所は七本槍の賤ヶ岳です。

山崎の合戦で明智光秀を討った後、秀吉は天下統一の最後の仕上げのため柴田勝家との合戦に臨みます。天正11年(1583)、雪解けを待って勝家が福井を出発、秀吉軍と賤ヶ岳の麓で激戦を繰り広げます。秀吉は加藤清正、福島正則など「賤ヶ岳の七本槍」の活躍で勝利して天下人となり、合戦後、七本槍の武将も大名に取り立てられました。

真夏の賤ヶ岳登山は、標高以上に高度を感じました。ヒグラシの声を聞きながら麓に下り、地域の方々の談笑の輪に加わりました。宇都宮から来たと言ったら、ずいぶん遠くから来たと驚き、さらに年齢を聞いて、まさかと驚いていました。

夜は湖水で沐浴、湖畔にシートを敷き、特産ゴリの佃煮を肴に、料理研究家魯山人(ろさんじん)も愛した「七本槍」を飲み、空と湖面に浮かぶ二つの月を見て、『湖の琴』を思い返しました。

<賤ケ岳山頂からの琵琶湖:竹生島が望見できる>
<賤ケ岳山頂からの琵琶湖:竹生島が望見できる>

bottom of page