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海外

A_01 マウントウエルヘルムの青い月

<部族の正装で歓迎に臨んでくれた人たち:最高のもてなしです>

(2006年) 8月9日 0時起床、食事後、ガイドやポーターを統括する女性日本人リーダーの「ガイドレディ?」という掛け声に、ガイドたちは一斉に「イエス」と答えます。その声とともに最終キャンプを出発、中天にある青い月が、標高4000メートル近い火口湖の湖面に映し出されています。赤道直下ではありながら、ヘッドはランプに照らされた草の穂先には露の結晶が光っています。ウエルヘルム山アタックは、登り8時間、下り5時間、標高1000メートルを超す長い一日の始まりです。

10人のメンバーは、年齢も随分と差があり、登山の経験も様々です。それでも頂上に立ちたいと強い意志を持って準備を重ね、高所医学の勉強もし、富士山でのトレーニングにも参加し、ワンチームになっていました。当日は高所障害や寝不足からくる倦怠感などに苦しみ、また、いくつもの偽ピークに騙されてくじけそうになりながら、みんなで声掛けをし合って気力を奮い立たせ、全員山頂に立つことができました。

<山頂での記念写真:登ってしまえばみんな笑顔です>
<山頂での記念写真:登ってしまえばみんな笑顔です>

登りの苦しさとは別に、下りもまた、集中力が切れて転落の恐れを危惧して、個人のペースに合わせての下山です。最後尾がベースキャンプに戻る頃には、再び青く澄んだ月が、今日登下降した尾根を照らしていました。こうして長い一日が終わって達成感と安堵感に浸りながら石油ランプの薄明りの下で遅い夕食を摂りました。

翌朝、まだ月あかりが残る中、ベースキャンプを後に下山、私たちにはもう一つの大切な目標があったからです。パプアニューギニアの中でも最も都市部から離れているウエルヘルム山の麓の小学校を訪問するという目標があったからです。参加メンバーが集めた教材のピアニカなどの楽器、筆記具や紙などの文房具、新しく購入したサッカーボールなどを段ボールに詰めて、悪路をランドクルーザーで、パプア最奥の小学校に届けました。持ち込んだ物資は航空会社のニューギニアエアの好意によって無料で輸送してももらいました。途中の陸路はショットガンを持った警察官に守られながら輸送です。

<ランクルの車幅にあわせた橋板:地元の人と橋を渡る通行料の交渉中>
<ランクルの車幅にあわせた橋板:地元の人と橋を渡る通行料の交渉中>

学校と言っても、制度上義務教育が十分でなく、しかも道路の途絶した山間地には国の援助も届かないこともあって、校舎は、9年前地元の有志がジャングルから柱や屋根を調達して建設されたもので、床は土間で、校庭は農家の庭程度の広さで、しかも谷に向かって傾斜があります。村民全員と思われるほど歓迎をするため校庭に集まっていました。中でも。ここで学んでいる子供たちと、3人の女性の先生が、校庭の真ん中で心待ちにしていました。

この小学校には、小学1、2年生30名ほどが在籍しています。児童たちは先生の「前へ倣え」の号令で整列してセレモニーを待っています。ふと、周囲の人の輪の中に同じ年齢の子供たちがたくさんいることに気づきました。授業料の払える階層の子どもたちだけが就学していることが分かりました。私たちの好意がむしろ格差拡大を助長しているのではないかとさえ思ってしまいました。

地域の大人たちの興奮も大きく、セレモニーは子どもたちそっちのけで、村の有力者が次々にあいさつに立ち、その都度現地語にも堪能なリーダーが日本語に翻訳します。本来はもっと大きなセレモニーする予定だとのことでしたが、時間の都合でようやく時間を短縮してもらったとのことでした。登山のメンバーがピアニカの模範演奏をしましたが、カリキュラムの中に音楽はないそうで、教材の選択を誤ったかとも思いました。しかし、縄飛びの実演をしたり、サッカーボールを子どもたちの前でキックすると、子どもたち以上に大人たちが興奮し、極楽蝶の羽で作った冠を付け、腰蓑姿の大人たちが、最もうれしい時の表現だという、大きな声を出してジャンプを繰りかえしました。筋トレもしていないのに胸筋の厚さには驚きです。

<部族の正装で歓迎に臨んでくれた人たち:最高のもてなしです>
<部族の正装で歓迎に臨んでくれた人たち:最高のもてなしです>

国と国との関係による援助は、首都周辺のダムや道路の建設に回り、末端の学校などには届かないということです。先生が、私たちの訪問で、パプアで一番裕福な学校になったと喜んでくれました。できれば、校庭の周囲にいる子どもたちにも恩恵が及ぶことを願いながら学校を後にしました。リーダーの話しでは、まだまだ部族同士の対立が多く、統一国家として自立していけるかどうか不透明だと心配していました。

今度のパプアニューギニア訪問の目的のウエルヘルム山登頂と学校訪問の二つとも達成できました。しかし、私にはもう一つの目標がありました。

パプアに嫁ぎ、旅行代理店の支店長をしながら、英語と日本語、さらに現地の言葉を話すリーダーに会うことが夢でした。この目標は、登山などよりも強いものがあり、山頂に立つことは二の次でした。しかし、登山隊を束ねる立場から、自分自身の目標を表立って他のメンバーに言うことは控えなくてはなりません。

リーダーは高校3年間山岳部に属し、その間キャプテンをして部員を束ね、北海道国体では2位に入賞、いわば私にとって秘蔵っ子ともいうべき存在でした。母手家庭で、将来は学校の教員になるべく教育学部に入りながら、周囲の反対を押し切ってパプアの生活を選びました。家族から相談を受けた私はもちろん反対でした。パプアに行って以来幸せでいるのかどうかずっと気にしていました。

首都のポートモレスビー空港で小さなプロペラ機に乗り換えて、登山基地でもある東ハイランド州の州都ゴロカ空港に着いた時、2歳になる女の子を抱いて出迎えてくれました。御主人は人垣の後ろに笑顔で立っていました。積年の感情が抑えきれず、私と彼女は涙にくれてしまいました。しかし、個人的な感情は抑え、すぐに登山の準備に掛かり、町で一番賑やかなマーケットで買い出しです。マーケットとは言え屋根があるわけでなく、それぞれ地面に座って主食の芋や野菜、果物を売っています。彼女は、現地語を使いながら値段の交渉をし、てきぱきと現地のスタッフに指示を出しています。高校時代の合宿前の買い出しを思い出しました。

彼女は今回の登山のリーダーとして、ポリスマンの手配、ポーターやガイドの雇用など次々とこなしていきます。日本を発つ前に、依頼されたのは安い腕時計を複数買ってきて欲しいということでした。部下に時間の意識を植え付けるためだということでした。登山活動中、彼女がリーダーとして指示を出せば、ガイドもポーターも躊躇なく行動します。キッチン担当には、日本人に合わせて味付けするように事前に訓練をしていたということです。

このように遠い異国の地で、現地スタッフに信頼されているのは、彼女の寛恕の人柄と、時には妥協を許さない果断な判断力によるもので、彼女の高校時代以来変わらないリーダーシップが現地でも発揮されていました。日本から来ている出稼ぎの外国人でなく、土地の人と結婚している仲間であるという安心感も大きいと感じました。

特に今回の登山隊は特別なゲストであることを事前に伝えていたこともあり、いつにもましてリーダーの指示に従ったと思われます。彼ら現地スタッフは根気よくサポートしてくれて、ヒマラヤやチベットなどのガイドと変わらない、時には謙虚で献身的な振舞はそれ勝るとも劣ることはありませんでした。これもリーダーの日ごろから教育の結果よるものでしょう。

長い時間の後に再会ですが、彼女がリーダーとして登山隊をアレンジしてくれたことにより、全員が頂上に立てたことは、今更ながら彼女の存在の大きさを実感し、ひそかに心の中で自慢し、教師冥利につきると改めて実感しました。

<当時2歳のみよし:日本名が付いている、御主人は控えめで表に出ない>
<当時2歳のみよし:日本名が付いている、御主人は控えめで表に出ない>

しかし、浮き立つような時間も過ぎ、ゴロカ最後の夜の打上げの後、食事の場所から彼女を送り出した時に、マウントウエルヘルムで見た時の様な青い月が出ていました。彼女の両腕の中には2歳の子がすやすやと眠りに就ついていました。このまま一緒に日本に帰ってしまいたいという衝動に駆られました。叶わないことでしたので、彼女には二つの国の架け橋となって、異国の空で輝く月のような存在であることを願いました。

そうだ、彼女の先輩や後輩を誘ってまた来ればいいんだ。そうすれば、パプアの地で輝き続ける月のような彼女に会えるんだ、そう思って別れました。

ゴロカの月はマウントウエルヘルムで見た時のようには澄んでいなくて、潤んで見えました。

(パプアから帰国してしばらくして、アフリカのキリマンジャロに出掛けて腸閉塞を発症、カタール航空の配慮で何とか帰国、意識不明のまま成田の日赤に運ばれるというインシデントがあり、登山を自粛、さらにその後白血病になり、1年間の入院を余儀なくされ、大きな山には挑戦できなくなりました。そのためパプア行きも実現できないままになり、もう20年が経ちました。当時2歳だった女の子も、日本への国費留学生を目指して、パプア第二の都市レイの工科大学で学んでいます。親子二代で日本とパプアの架け橋となってくれることを期待しています。

NHKなどのテレビでパプアの番組をやる時には、コーディネーターとして見形明美の名がしばしばテロップに流れます。本人の了解を得て、登山隊のリーダーであった彼女の実名を出しました。

私は、海外登山でヒマラヤ、チベット、アフリカやカムチャッカなどにも出掛けていますが、旅日記にどうしても載せたいほどではありません。教員をしていたことの因果でしょうか。パプアの体験が異例の旅日記になってしまいました。)

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