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北陸

4_08 海が生んだ能登の風景

<山の中腹にある段畑での農作業を終えて帰宅>

北陸は越(古志)と言われ、その後、越前・越中・越後に分かれ、さらに能登が分出し、最後に加賀が誕生しました。能登は、明治に石川県の一部となりましたが、古くは朝鮮半島や沿海州からの文化も流入した先進地でした。令和6年元旦の能登大地震以前に行きましたので、海が育んだ能登の生活を見て廻りました。

能登塩/能登半島の海岸には、波の迫る海岸の縁に、小さな石垣が積まれた場所を見かけます。かつての「能登塩」の塩田跡です。加賀藩の専売となり、富山湾で獲れた鰤(ぶり)は塩蔵され、飛騨で「越中鰤」、信州では「飛騨鰤」と名を変え、正月には出世魚として珍重されました。その際に欠かせないのが「能登塩」です。

瀬戸内地方では潮の干満を利用した入浜式塩田が発達しましたが、日本海側では、波打ち際に降りてカイ桶に潮水を汲み、担い棒で担ぎ上げて塩田の砂に撒く揚げ浜式です。砂を天日乾燥して鹹砂(かんさ:濃塩水)にし、実塩桶(みおけ)で濾し、塩竃に掛けて平釜で煮詰め、水を蒸発させます。この過程で、山から伐り出された「塩木」が大量に使われます。粗塩(あらしお)は苦汁を切った後に、鰤の水揚げ港氷見などに出荷しました。塩田主の多くは山林主でもありました。

能登の塩田は、家族単位で行う小規模塩田でしたが、製塩の出来ない梅雨の間は稲作に出精できるので、平地の乏しい能登半島では欠かせない生業となりました。

禄剛崎(ろっこうざき)などの観光地でなく、波打ち際の塩田跡に気づけば、内陸まで運ばれた塩の歴史を学べ、平地の少ない能登の人たちの厳しい生活を体感できます。

間垣の里/文化庁は、平成17年に「風土によって形成された我が国の生活又は生業の在り方を表す景観地」を「重要文化的景観」に指定しました。輪島市の西端の上大沢地区は「間垣(まがき)の里」として、全国70余か所の景観の一つとして指定されています。

能登半島の日本海側に面した海岸段丘の外浦は、狭い海岸線に小さな集落が点在しています。冬はシベリア風が直接流入し、波頭が散って泡状になる「波の花」が見られる地域です。風と波の飛沫を防ぐため、地域全体が、苦竹(にがたけ:メダケ)を隙間なく立て並べた「間垣」で覆われています。竹は柔軟性があり、冬は風雪を遮り、夏は日差しを和らげます。

集落から離れた山の中腹には畑が点在し、シニアーカーに乗った御婦人お二人が天気が悪くなったので自宅に帰る際に出会いました。労を惜しまない能登の人たちが作り上げた「里山里海」の風景の一部です。  

人と自然が織りなす「重要文化的景観」も、若い世代が転出し続けていることから今後も維持可能かどうか心配です。観光バスの行かない日本海側の外浦で本当の能登を見つけました。

<海べりの「間垣の里」:毎年の補修が大変っだと聞きました>
<海べりの「間垣の里」:毎年の補修が大変っだと聞きました>

(訪問した翌々年の正月に大地震、夏に洪水に見舞われました。何世紀にわたって災害に立ち向かってきた人たちにとって二重の苦難となりました。今まではその土地で再生してきましたが、高齢化など、今までとは違った困難が立ちはだかっています。)

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