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北陸

4_03 越(こし)の国の二人の女性

<奴名川姫と御子の建御名方神:糸魚川市>

古代、日本海側の福井県の北半分から新潟県は、越と呼ばれていました。越前・越中・越後、さらに加賀や能登に分かれました。越後の国二人の女性を訪ねる旅です。

奴名川姫(ぬなかわひめ)/ 栃木県内の各地の縄文遺跡から、翡翠の勾玉が出土します。新潟県の糸魚川周辺で加工されて運ばれたものです。

『古事記』や『出雲国風土記』には、大黒様で知られる出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)が越の国に出向いて奴名川姫(ぬなかわひめ)に求婚し、歌を詠み交わして結ばれたことが記されています。この神話は、越の国と出雲の国との強い繋がりを示し、鉄器を用いて稲作を普及させた出雲の勢力が北上してきたことを示しています。二人の子とされる建御名方神(たけみなかたのかみ)は諏訪大社に祀られ、信濃にも勢力伸長させたたことが分かります。6世紀には、越前から出た継体天皇が大和王朝の皇位に就いたことから、越には強力な勢力があったことが窺い知れます。

糸魚川駅前や北陸道サービスエリア、海望公園に奴名川姫像があり、地元では単なる伝説の人でなく、今でも生き生きと語り継がれる存在の越を代表する女性です。

フォッサマグナ博物館を見学、ヒスイ海岸の夕景を見て、新幹線で帰路に就きました。

貞心尼(ていしんに)/良寛和尚が子どもたちと遊んでいる姿は絵本にもなっています。良寛は歌人としも有名ですが、歌人として世に出たのは貞心尼という一人の女性がいたからです。

江戸時代末、良寛は出雲崎の名主という恵まれた家の長男として生まれましたが、18歳の時に突然出家、備前(岡山)で修行、その後各地を放浪し、後年郷里に近い国上山(くにかみやま)の五合庵に住い、生涯寺を持つことなく、托鉢で生をつなぎ、晩年は知人宅に寄寓しました。

 一方、長岡出身の貞心尼は、美貌であり、若くして医師に見初められて結婚、しかし5年で離縁、22歳の若さで剃髪(ていはつ)します。30歳の時に70歳の良寛と出会い「君にかく あひ見ることの うれしさに まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ」と歌を送り、良寛も老いを忘れ浮き立つような歌を返します。この後も二人は歌の贈答をとおして深く結ばれます。

良寛は臨終の時「いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今は相見て 何か思はん」と、貞心尼に会えた喜びを詠んでいます。良寛没後、貞心尼が残した良寛との問答歌集『蓮(はちす)の露』により、良寛の歌が広く知られるようになりました。

越後は海岸線が300キロ以上あり、上越、中越、下越では気候風土も違います。燕市に残る質素な五合庵とともに、柏崎市の貞心尼像や墓所も訪ねてみてください。

<貞心尼托鉢像:柏崎市>
<貞心尼托鉢像:柏崎市>

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