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北陸

4_02 旭の将軍木曽義仲の栄光と挫折

<義仲と巴御前:宮ノ越宿の義仲館>

『平家物語』で描かれた「諸行無常」は平氏一門ばかりではありません。木曽義仲もまた同じような人生を体現した人と言えます。義仲の旗揚げ地、さらに、上洛に際して大勝した倶利伽羅(くりから)峠、義経に追われて敗死した琵琶湖畔の最期の地を訪ねました。

倶利迦羅峠の戦い/木曽で育ったことから木曽義仲と呼ばれますが、源頼朝とは従兄弟になります。木曽路宮ノ越の宿場には、薙刀を持って立つ巴御前と床几に座る義仲のブロンズ像があります。その容貌から天下人への野望が感じ取れます。

平家一族が栄華を極めている時に、義仲は、頼朝に先駆けて北陸道を経て上洛を図りましたが、10万にも及ぶ平維盛軍に苦戦を強いられました。越中と加賀の境にある倶利伽羅峠の戦いでは、夜間の奇襲攻撃「火牛の計」により一気に平家軍を打ち破りました。

『平家物語』には、不意を突かれて谷に落ちて死ぬもの、命からがら都に逃げ帰る者など詳しく描写されています。貴族化していた平家は、武家として「一所懸命」に恩賞を求める戦闘意欲に欠けていたとも言えます。峠は古戦場として保存され、火牛のブロンズもあり、越中の砺波平野が見渡せます。

義仲は「朝日の将軍」と言われ、破竹の勢いで上洛し、平家を都から西下させ、政権が変わる節目を作りました。貴族社会が終わり、頼朝の鎌倉開幕よりも早く武家社会へと時代が進めた人です。「木曽」でなく、源義仲として歴史上もっと評価されていい人物です。

木曽殿の最期/天下を握ったかに見えた義仲は、公家のしきたりに疎く、その上、後白河上皇の策謀によって、同じ源氏の義経軍により都から追い落とされます。琵琶湖畔の粟津の松原まで逃げてきた時、乳兄弟の今井四郎兼平に自害するよう勧められたものの、不名誉にも敵将に射落とされてしまいました。刃をくわえて馬上から落ちて自害する今井四郎の見事な最期と対照的に、『平家物語』で「木曽殿の最期」として描かれています。

古来、洋の東西を問わず、攻撃している時には勢いそのままに振る舞いながら、一転劣勢になるとたちまち崩れ去る英雄がいました。これは我々誰にでも当てはまります

義仲の死後、巴御前が尼となって供養した場所が義仲寺(ぎちゅうじ)だと言われています。芭蕉も埋葬されています。狭い境内の三人の墓を拝みながら、自分の在り方を省みました。粟津の松原は埋め立てられて粟津中学校となり、「木曽殿の最期」の場所は分かりませんでした。

<倶利伽羅峠:火牛のブロンズ>
<倶利伽羅峠:火牛のブロンズ>

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