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北陸

4_19 越前の嶺北と嶺南を分ける木の芽(きのめ)峠 

<峠の茶屋:茅葺で往時の姿を残している>

福井県は敦賀市や小浜市など嶺南と、福井市などの嶺北に分かれ、奈良時代の北陸道以来難所の木の芽峠で結ばれていました。敦賀駅から1日がかりの峠歩きの旅です。

歴史が動いた峠/紫式部は、結婚のため父の赴任地越前国府の武生から帰京に際し、峠の険しさを歌に詠んでいます。峠は、木曽義仲の上洛や源義経の奥州下向にも使われました。

木の芽峠は日本宗教史とも大きな関わりがあります。鎌倉時代初期、浄土真宗開祖の親鸞聖人が法難にあって越後に配流された際や、少し後に京都を避けて越前に永平寺を開いた道元禅師が峠を越えました。さらに室町時代、浄土真宗中興の祖である蓮如上人が越前吉崎御坊に教化の拠点を移すため峠を越えました。蓮如上人の布教により、加賀を中心とする北陸門徒は戦国大名に比肩する勢力となりましたが、天下統一を目指す織田信長によって制圧され、歴史が大きく動きました。

峠の茶屋には、織田信長から犬の飼育を義務付けられたという言い伝えがあり、今も4頭が放し飼いになっていてました。犬嫌いを知ってか、一番大きな犬に尻をかまれました。

帰路には木の芽峠と並行する栃の木峠を越えましたが、ちょうど吉崎御坊から京都への「蓮如上人御影行列」に会いました。今も続く北陸門徒の信仰の厚さを実感しました。

天狗党の西上/「水戸学」は徳川光圀の思想を継承したもので、御三家でありながら尊皇を唱道し、本来的に矛盾を内包していました。幕末期になると藩内での思想対立へと発展、尊王攘夷派の急先鋒で天狗党と呼ばれた一派は、京都にいる将軍徳川慶喜に真意を訴えるため、家老武田耕雲斎を首領に水戸を出発しました。幕府方と衝突をしながら、迂回路を通って下野から上野、さらに信濃を経て雪深い越前に至ります。

ところが、味方となるはずの慶喜の命で逆賊となり、木の芽峠を越えた先の新保で降伏し、敦賀の鰊(にしん)小屋に押し込められ、300人以上が斬首されました。首切り役は、桜田門外の変で水戸浪士たちにより暗殺された井伊大老の家臣であったため、容赦がありませんでした。遺体は穴の中に放り投げられたということです。

峠の麓の新保には、降伏を決意した武田耕雲斎陣屋跡が残り、敦賀市内には天狗党の慰霊碑と耕雲斎の銅像があります。閉じ込められた鰊小屋は解体され、資金面で再建が先延ばしになっているとのことです。歴史の証人として是非復元して欲しいものです。

訪れたのは春の連休で、天狗党とは違い、新緑に包まれた穏やかな日に越えました。

<敦賀市:武田耕雲斎銅像>
<敦賀市:武田耕雲斎銅像>

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