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北陸

4_18 与謝野鉄幹をめぐる二人の女性

<山川登美子文学記念館>

明治の文学史にわずかな時間でしたが、強い光芒を放った山川登美子の生家福井県小浜を訪ね、さらに、鳳(ほう)晶子が夫与謝野鉄幹と新生活を送った渋谷の新詩社跡を訪ねました。

山川登美子/小浜は、江戸時代の鯖街道の拠点でもあり、北前船寄港地で賑わった城下町です。市内にはお水送りの若狭井や国宝を始めとする古寺社が多数あります。  

登美子は明治30年に、大阪で最初に開設された女学校を卒業、短歌を通して鉄幹と交流するようになりました。鉄幹に妻との間に子供がいることも承知でした。その頃すでに鉄幹は文学結社「東京新詩社」を主宰していました。同じ時期に鳳(ほう)晶子もまた鉄幹に心を寄せるようになり、三角関係以上の人間模様となりました。

登美子は古い家風により親の勧めで外交官と結婚しますが、夫が肺結核で死去、再び山川家に復縁、身を立てるため日本女子大に入学します。晴れて鉄幹の主催する新詩社の同人となり、歌会にも参加し、鉄幹への思慕をより強く持ちます。鉄幹もまた登美子に惹かれます。

  しかし、歌友晶子が鉄幹を慕っていることから、「それとなく 紅(あか)き花みな 友に譲り 背きて泣きて 忘れ草つむ」の歌のとおり、故郷の小浜で結核により29歳で生涯を閉じました。

武家屋敷の生家が記念館になりに「髪ながき 少女と生まれ しろ百合の 額(ぬか)は伏せつつ 君をこそ思へ」の歌碑がありました。小浜の中でも一際目立つ武家屋敷の山川家の門構えは、人生の重荷にもなっていたはずです。

与謝野晶子/堺の老舗の菓子屋の鳳(ほう)家の長女は、幼少時から書籍に親しみ、特に『源氏物語』など古典に関心を持っていました。女学校を卒業後、鉄幹が創刊した『明星』に投稿して採用され、鉄幹が来阪した際、山川登美子とともに面会、鉄幹に強く惹かれました。

鉄幹が再度来阪した際、晶子は京の宿で鉄幹と一夜をともにし、それを契機に、翌明治34年単身上京し、鉄幹に寄せる思いを『みだれ髪』として出版、奔放な恋愛感情を表現し、社会問題となりました。中でも「その子二十 櫛に流るる黒髪の おごれる春の うつくしきかな」は表紙のモチーフとなるが代表作です。

この後に、鉄幹と正式に入籍が叶い、渋谷道玄坂近くで新生活をスタート、12人の子を産み、家計を支え、歌作の他に女性解放運動などでも活動、晩年は少女時代からの憧れであった『源氏物語』の現代語訳に傾注します。明治から昭和まで、社会をリードし続けました。

文学史に一時代を画した東京新詩社の跡は、周囲が繁華街となり、交番で聞いても分からず、勤務中の書店の店員さんに連れて行ってもらって、ようやく分かりました。「東京新詩社跡」のポールが立っているだけで、周囲は若者好みの飲食店街になってしました。道元坂を登り切った場所に晶子の歌碑があります。当時の渋谷は国木田独歩も暮らし、売れない文士たちにとって手ごろな値段で家を借り切ることができた場所だったのです。

晶子よりも、山川登美子に関心が向くのはなぜか、夕方の渋谷の街を歩きながら考えました。

<東京新詩社跡の標柱:渋谷道玄坂>
<東京新詩社跡の標柱:渋谷道玄坂>

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