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北陸

4_14 北陸長岡の戊辰戦争 『峠』と『米百俵』の主人公

<学校跡の「米百俵之碑」:学校らしい建物はない>

青春18きっぷを使い、大宮から高崎経由で水上乗り換え、上越線で長岡まで片道6時間、深夜の帰宅でした。幕末から明治維新にかけて、長岡で生きた二人の事績をたずねる旅です。

「米百票」/小泉元首相が就任演説で、小林虎三郎の「米百俵」の故事を引用しました。

小林は、佐久間象山のもとで吉田松陰と机を並べた学友で、象門の「二虎」(松陰の本名は寅次郎)と言われた俊才でした。しかし、藩主に神奈川開港など開国を具申したことで、蟄居(ちっきょ:家庭謹慎)を言い渡され、幕末には活躍の場を持てませんでした。

小林は、版籍奉還後に長岡藩の大参事となり、疲弊した長岡の復興に努めます。明治3年、分藩の三根山藩から、窮乏する藩士への援助米百俵が届けられました。小林は、「米百俵は三日で食い尽きてしまう、復興は教育にある」とし、救援米を換金し、学校建設に充てました。長岡からは、山本五十六をはじめ多くの俊英が世に出ました。今の長岡高校に繋がります。

しかし、小林は、明治4年に長岡県が柏崎県に併合されたのを機に、藩の公職から身を引き、上京して国の教科書編纂などに努め、大きな功績を残しました。作家森鴎外や星新一などは小林の縁戚です。小林は、生涯を学問や文芸に捧げました。

長岡図書館に、小林のコーナーがあるだけで、事跡は学校跡にプレートがあるだけでした。

河合継之助/河合継之助を主人公とする司馬遼太郎の『峠』が発行され、その後映画化され、河合は一躍歴史の表舞台に出ました。長岡よりも先に河合の終焉地福島県只見町に「河合継之助記念館」が建設されました。

長岡藩主牧野氏は、大政奉還の時代変革期に藩論を統一できず、河合を藩政の中心に据えました。河合は、単身で新政府側と和議を図るも、会談は決裂、自ら長岡城に火を放って退却、信濃川を挟んで対決し、合戦の最中に脚に銃弾を受け、救護籠に乗せられて六十里「峠」を越え、会津に運ばれる途中、只見で自決し荼毘に付されました。会津では河合の名が広く知られていますが、今も長岡の人たちは誰もが称賛しているとは思えません。只見町の記念館の方が中身も濃く、河合に対する心情があふれています。

長岡は焦土化し、長岡の人々は塗炭の苦しみを味わいました。河合を表に出したくなかった長岡の人たちの心情に繋がりました。『峠』がベストセラーになった年は、長岡市制100周年に当たり、1世紀経って長岡にも河合継之助記念館が建設されました。

帰路は、長い清水トンネルのループを下りながら、空席の多い列車の中でワンカップを

傾けました。二人の生き方から、時代の転換期の生き方の難しさを考ええました。

<河合継之助記念館:近くに山本五十六の生家が保存されている>
<河合継之助記念館:近くに山本五十六の生家が保存されている>

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