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北陸

4_13 新潟の油田を訪ねて

<近代石油産業発祥の地:日石の社章コウモリのマークが見える>

原油は輸入が当たり前になっていますが、戦前までは、新潟県や秋田県を中心に日本の油田が稼働していました。新潟の石油遺産を訪ね、ENEOSのルーツも分かりました。

尼瀬(あませ)油田/アスファルトは、縄文人たちが鏃(やじり)の接着などに用い、北海道から関東地方にまで広く流通し、ヒスイや黒曜石とともに古来より重要な交易品でした。

 日本で初めて文献に出てくるの、日本書紀で、天智天皇が即位した668年、越の国から「燃土(もゆるつち)、燃水(もゆるみず)」の献上が記録されていますが、具体的な場所は不明です。ただ、精製しない燃水は使い勝手が悪く、その後明治まで一般には普及しませんでした。

明治の文明開化でランプの普及に伴って、精製された灯油が大量に使われたことから、新潟・秋田県で多くの油田が掘削されました。出雲崎町の尼瀬では、今日のENEOSのルーツのーつである日本石油会社がアメリカ人技師を招聘し、明治21年に機械による掘削が始まりました。柏崎には、出雲崎の尼瀬油田の他に、西山油田などの原油を精製する精油所が「築造され、日本石油本社もありました。しかし、原油輸入自由化により廃業となりました。柏崎駅前に日本石油創業の記念碑が建ち、精油所関連のレンガ造りの1棟が建っています。

柏崎刈羽原発は休止中で、時々のエネルギー政策で議論が交わされていることが伝わってきます。

新津油田/新津市(現在は新潟市秋葉区)にあった油田は国内でも最大もので、500町歩の土地を持つ地元の大地主中野貫一が中心となって石油の掘削を始めました。

明治末に、アメリカから掘削機を導入して、産油量日本一となり、パイプラインで新津駅に圧送され、鉄道で新潟の精油所に運ばれました。日清・日露の戦役後の明治30年代から石油ブームとなり、灯油ばかりでなく、発電機や工業機械の燃料の重油の需要も高まり、新潟は石油ブームで沸き返りました。中野は「石油王」と呼ばれましたが、奢ることなく、育英財団の設立など後進の援助に努めました。自宅は記念館として公開されています。

夏目漱石は、石油ブームに沸く様子を知り、小説『野分』に、「町の3分の2は石油会社お陰」と財政の依存、さらに人の気風にも影響していることを、主人公の友人に語らせています。

やがて、競争相手が油井を近接して掘削するなどして、無秩序に乱掘したため資源が枯渇、廃業に追い込まれました。現在、中野家を含む一帯は石油公園となっています。  

産業遺産に関心があることから、静岡県の相良(さがら)油田(牧之原市)も訪ねました。石油に限らず、鉱工業は時代の中で浮沈することを実感しました。

<石油公園に残る油田施設>
<石油公園に残る油田施設>

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