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北陸

4_12 紫式部 越前武生(たけふ)と今庄

<紫式部公園:紫式部像>

北陸新幹線延伸を機に、紫式部が滞在した国府のあった武生を訪ね、紫式部公園を見学、その後、第三セクターのハピネスふくい鉄道で宿場町今庄も訪ねました。

越前国府/父藤原為時がようやく越前国司の地位を得ました。越前は、国の区分で、大・上・中・小の内の「大国」で、越前国守は下級貴族にとって願ってもない官職でした。

父に帯同して下向した紫式部の越前滞在は短期でしたが、多感な年齢であっただけに、後の『源氏物語』などの創作活動にも影響があったはずです。

式部は武生滞在中、20歳以上年上で、しかも妻帯者の藤原宣孝から求婚されましたが、「春なれど 白嶺(しらみね)の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」と『紫式部集』にあるとおり、春になってもますます積る越前の白山の雪のように、私の心はいつ打ち解けるかわかりません、と返事しました。それでも宣孝の求婚に応じて上京しました。しかし、2年ばかりで夫が亡くなり、その後藤原道長の求めで中宮彰子のもとに出仕し、女房勤めをしました。

武生市内には、昭和58年に築造された、国内唯一の寝殿造り公園があり、黄金の紫式部立像があります。紫という名の付く式部の印象と違って、少々違和感がありました。

戦国時代、柴田勝家が北の庄に築城し、江戸時代に松平氏の城下町となり、縁起の良い地名福井に改められた地が越前の中心となり、武生は政治の中心から離れました。

武生は合併で「越前市」となりましたが、新幹線駅には「越前たけふ」と地名を残しました。こらいより「たけふ」が越前の中心であるという自負からでしょうか。

今庄宿/紫式部が都に上る際に、武生から敦賀に抜ける北陸道の難所木の芽峠を越えました。峠の麓の今庄宿は、峠にかかる前に休泊するため、北陸街道の中でも栄えた宿場のひとつです。

明治になって、北陸線が開通されると、急勾配を上下するため機関車を増結することから機関区が設けられた、今庄は宿場から鉄道の町へと大きく転換しました。

しかし、貨客の増加に対応するため、木の芽峠の真下に13,870mの北陸トンネルが貫通すると、機関区は廃止、駅は無人化し、北陸本線も第三セクター化しました。

交通で栄えた地域が、交通手段やルート変更などで盛衰するのは各地にみられます。今庄には江戸時代からの造り酒屋が3軒が残り、宿場は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、地域起こしをしています。ただ、合併で南越前市となり、沿岸部から内陸部まで広範な市域となり、山間に位置する今庄は、過疎化など難しい課題を抱えていました。

<今庄宿:江戸時代からの造り酒屋>
<今庄宿:江戸時代からの造り酒屋>

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