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北陸

4_11 白山信仰の登山口 美濃と越前

<美濃側の登山口石徹白にある中居神社:盛時の賑わいを残している>

白山は奈良時代、泰澄(たいちょう)によって開山された、富士山・立山とともに日本三霊山の一座です。白山の登山口には、美濃・越前・加賀それぞれに、国名を付けた馬場(ばんば)がありました。美濃からから越前の馬場に回り、時代の変遷を実感しました。

美濃馬場と石徹白(いとしろ)/登山行為そのものが修行とされ、その登拝の道が禅定道(ぜんじょうどう)です。東海地方の信者は、飛騨川沿いに郡上八幡に向かい、白鳥(しろとり)神社馬場に参拝、最奥の集落石徹白に宿泊し、案内人の御師(おし)に先導され登拝しました。

江戸時代、「登り千人、下り千人」というほど庶民の信仰登山が盛行し、御師たちは、冬に尾張・三河・遠江方面で「白山牛王宝印」のお札を配り、信者を増やしました。それに伴って御師が特権階級となり、藩政にも影響を及ぼすほどでした。

石徹白の御師間で入山料権益や祭祀権をめぐって対立、さらに役人の私欲が絡み、「石徹白騒動」という大事件が起きました。この騒動は幕府の介入まで招き、郡上藩主が改易され、村民の3分の2が追放処分となりました。騒動以来、美濃禅定道は衰退します。

現在の石徹白は、百名山の登山のルートから外れ、過疎化の中、転換期を迎えています。

集落の最奥に鎮座する白山中居(ちゅうきょ)神社には、郡上踊りのもととなった盆の奉納踊りが伝えられています。

越前平泉寺(へいせんじ)白山神社/1300年の歴史を持つ白山神社の参道は苔で覆われ、木漏れ日が荘厳さを演出しています。今は参道の奥に小さな本殿一宇が残るだけですが、開山にあたり泰澄も越前側から登拝したと思われ、白山登拝の原点です。

登山基地ともいうべき平泉寺は、平安時代に比叡山の末寺となり、多数の僧兵を擁し、多くの僧房を構える宗教都市の中核でした。しかし、権力との繋がりが強いがゆえに、宗派対立も激烈となり、浄土真宗門徒との抗争により、平泉寺一山は焼き討ちになり灰燼に帰しました。明治の神仏分離で平泉寺は廃絶し、地名だけが残り、白山神社となりました。平泉寺の衰退で、祭祀権は加賀側に移り、今は登山者も加賀側に集中しています。

『日本百名山』の作者の出身地が加賀で、「ふるさとの山」に肩入れしていますが、加賀の白山としていますが、白山は、長良川、九頭竜川、手取川の水源です。

平泉寺白山神社は、苔の美しさもあって若い女性の人気スポットとなっています。

<平泉寺白山神社参道:一面苔が生え、両側には石垣も残っている>
<平泉寺白山神社参道:一面苔が生え、両側には石垣も残っている>

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