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北陸

4_10 流人の島佐渡 順徳院と世阿弥

<順徳天皇御火葬塚:真野御陵>

佐渡は、奈良時代に北陸道の一国となり、越後の寺泊と赤泊間に航路が開かれました。今は全島が佐渡市になり、新潟港からの航路が中心となっています。後輩の運転するレンタカーで、流人の史蹟を訪ねました。

承久の乱/流人の島佐渡には、政争や宗教対立により、奈良時代から室町時代までに、高位の人たち70人以上が遠島(おんとう)になりました。遠島でも佐渡は最も重い場所です。江戸時代、金山労働者として送られた人は、都市部の無宿人たちで、立場が違います。

1221年(承久3)、後鳥羽上皇らが鎌倉幕府倒幕のため挙兵したものの、幕府側に鎮圧され、後鳥羽上皇は隠岐に、連座した土御門天皇は土佐に、後鳥羽上皇の第三皇子順徳院は佐渡に配流、それぞれの地で崩御しました。『百人一首』で、後鳥羽院の歌が99番に、皇子であった順徳院の歌は最後に載っています。撰者藤原定家の幕府に対する思惑があったのでしょう。

 順徳院は佐渡在島21年、帰京の願いが叶わないことを悟り、46歳の時、「供御(くご:天皇などの食事)を聞こし食(め)さず」と断食を始め、「9月9日に御命終わるべき」と願ったものの死にきれず、焼石を体に置いて亡くなったと伝えられています。佐渡配流者の中でも最も悲惨な最期を遂げた方で、火葬塚址は、宮内庁の真野御陵となっています。

佐渡の芸能/流人の島であったことから、佐渡には上方の宗教や文化が伝播しました。佐渡では、祭礼の神事で猿楽(能や狂言の源流)や仮面をつけて太鼓を打つ鬼太鼓(おんできこ)などが、催行されていました。歌舞伎の始祖の出雲小国が来島したという伝承もあり、海路を通して都の芸能を受容する土壌があったと言われています。

室町時代に、能の大成者世阿弥が、将軍足利義持によって佐渡に流され、晩年に帰京が許されました。一芸に秀でた人は、時として千利休のように命まで失うこともあります。

世阿弥が佐渡で能楽を普及したという事跡はありません。江戸時代になって、初代佐渡代官の大久保長安が能楽者の家系であったことが影響し、もともと農村の神社の祭礼に奉納された芸能と能が融合して、佐渡に能が定着しました。佐渡には能舞台が30ほど残っていますが、多くは神社の境内にあり、夜間の興行は薪能として催行されます。

金山が世界遺産に登録され、坑道入り口には観光客が列をなしていましたが、恩恵が全島には波及しているとは思えませんでした。

夜は、民宿で食べきれない船盛り刺身など、新鮮な魚介と地酒を堪能しました。しかし、隣の列には、定宿としている工事関係者の一団がが食事をしていましたので、食事の内容に差があって、おいしさを控えめに表現する配慮は欠かしませんでした。

<世阿弥元清供養塔:正法寺>
<世阿弥元清供養塔:正法寺>

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