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北陸

4_01 『おくのほそ道』の越後路

<鉢崎宿たわら屋跡:看板があるだけで訪ねる人もいない>

『おくのほそ道』は古典の授業で『奥の細道』と習ったはずですが、「おくの細道」とする本もありますが、芭蕉が最晩年まで推敲を重ねて、最後の稿本が『おくのほそ道』でしたので、今はそれに従っています。『おくのほそ道』中で最も長い300㌔超の越後路を、数次に分けて訪ねました。

鼠ケ関/出羽(山形)では、尾花沢に10泊、この後立石寺に廻り、最上川を下って出羽三山へ、さらに城下町鶴岡から最上川河口に位置する酒田に出て、象潟まで足を延ばし、逗留は合わせて40日、「おくのほそ道」でも一番長い滞在です。

ところが、越後に入ると一変します。「酒田の余波(なごり)を重ね北陸道(ほくろくどう)の雲に望む、(中略)鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行を改めて、(中略)この間九日、暑湿の労に心を悩まし、病起こりて事をしるさず」とあり、9日間の越後については

文月や六日も常の夜に似ず    

荒海や佐渡によこたふ天河 

の2句2行のみで済ませています。鼠ケ関は、白河の関、勿来(なこそ)の関とともに古来三関で、芭蕉は承知しながら、ただ越後の始まりの地名として挙げているにすぎません。

鼠ケ関は念珠関と改めら、標柱があるだけで古関の面影は見られません。

鉢崎宿/越後に入り、城下町村上で、家老から路銀を受けるなどの厚遇で2泊しています。

ところが、次の新潟に行くと、届いているはずの紹介状がなく、やっと大工の好意で宿を借りることができました。芭蕉は、『笈(おい)の小文』で、旅では宿と草鞋(わらじ)にこだわっていると書き記しています。暑さと長旅の疲れに加え、新潟での一夜が越後路を書き記さなかった原因と思われます。

さらに翌日、疲労で馬に乗ろうとしたところ、馬代が高くて徒歩の旅を続けることになり、弥彦と出雲崎で1泊して、柏崎に着きました。さらに悪いことには、紹介された豪商宅の対応が悪いことで気分を害し、引き留められたものの、雨の中を、米山が日本海に落ち込んでいる険路4里を歩き、次の宿場鉢崎(はっさき)まで行きます。この時の随行者の曽良はどんな気持ちだったでしょうか。その後曽良は加賀に入り体調不良となり、縁者を頼って伊勢の長島に単身で一足先に向かいました。心労ではなかったかと推察します。

旅を終えて『おくのほそ道』を書き上げるまで4年の歳月があることから、度重なる宿への不満から、越後を書かなかったことは意図的だったのでしょう。

鉢崎は、明治以降、宿場の機能がなくなるとともに衰退、JR駅も米山と改称され、当日は私以外は下車する人がいませんでした。芭蕉が泊った「たわら屋」も空き地でした。

<出羽と越後境の念珠の関址:国道脇の石柱>
<出羽と越後境の念珠の関址:国道脇の石柱>

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