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北海道

9_02 鰊群来の留萌と城下町松前

<廃線となった留萌本線終点の増毛駅跡>

手元にある古い地図帳には、北海道の日本海側に複数の鉄道線が記されています。しかし、すでに松前線、江差線と岩内線、北の留萌本線の留萌と増毛(ましけ)間は廃線になっています。廃線の町を訪ねながら、日本海沿岸を宗谷岬まで北上しました。

鰊群来/近代俳句の巨匠山口誓子(せいし)の句に「どんよりと 利尻の富士や 鰊群来(にしんくき)」があります。鰊曇りの春になると、産卵のため沿岸に押し寄せてくる光景が「鰊群来」です。この季節には出稼ぎのヤン衆や賄いの女性たちが、日本各地から網元が経営する番屋にやってきます。北島三郎や北原ミレイの歌にもなっています。

江戸後期には、綿などの栽培に魚肥として鰊の搾め滓(かす)が使われ、山陰や瀬戸内地方にまで回漕されました。さらに身欠き鰊として全国に普及し、京都の鰊そばにもなりました。  海から離れた八溝の山間でも、田植え時に振る舞う小昼飯(こじはん:こちゅうはんの方言)は、身欠き鰊と山菜の煮付けが定番で、鰊ばかり選んで食べるほど最高の御馳走でした。

先住のアイヌの人たちは自然を畏敬し、収奪し尽くすことはありませんでした。しかし、本土からの来た網元たちが競い合って乱獲し、今は鰊が獲れなくなり、ほぼ海外からの輸入に頼っています。歴史から学ばない日本は、今も食べ放題で魚を消費しています。

鰊漁で賑わった増毛には最北の醸造元や文化財指定の豪商邸も残っています。しかし、今は廃駅に人影が全くありません。間近に迫る海を見ながら「鰊群来」を想像しました。

北海道の城下町/本州の竜飛岬に向き合う松前は、北海道唯一の城下町です。米が栽培されないにもかかわらず、松前藩は天守閣のある城持ち大名となりました。藩財政は、対アイヌ交易を独占し、西回り航路の北前船で海産物を京阪神に運んで得たものが主です。財政が逼迫すると、アイヌに対してさらに厳しい収奪を繰り返えしました。

幕末になって、外国に開港した函館に経済の中心が移っても、北前船での交易のため藩庁は松前に置いたままでした。しかし、函館本線の開通、漁業の不振、人口減に伴う鉄道の再編、さらに北海道新幹線から離れていることから、今後も人口減が予想されます。

北海道の歴史は、札幌などの開拓史が中心になりがちですが、松前や、室町期の城館跡が残る北隣の上ノ国町、信濃追分が伝わって江差追分となった江差町など日本海側が早くに開けた表舞台でした。さらにその背景にあるアイヌの歴史を除いては語れません。

松前には天守閣があり、小さいながら城下町は桜の名所ともなっています。


<日本最北の松前(福山)城の天守閣>
<日本最北の松前(福山)城の天守閣>

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