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北海道

9_01 襟裳岬「何もないのか」

<潮流の激しい岬周辺は昆布の好漁場>

「観光」は中国の四書五経の一つ『易経』に出てくる古い言葉です。国のリーダーとなる者は、各地の政治状況や地理・風俗などを「観光」することが必須でした。光は目では観ることができないので、心で感じ取らなくてはなりません。日本でも、混沌とした幕末に吉田松陰は全国を「観光」して国の未来を考えました。賢人でなくとも、心がけで誰でも光を観ることが出来ます。

日高昆布の産地/日高山脈が海に落ち込む襟裳岬は「風極の岬」と言われ、年間を通して強風が吹き渡る場所です。海に落ち込む寸前のアポイ岳は、標高こそ高くありませんが固有の高山植物が多いことから、苫小牧から海岸線を走り、登山に出掛けました。その夜は、海霧が吹き渡る無人の襟裳岬で車中泊をしました。森進一の歌にある「何もない夏」を実感しました。

翌日は快晴になり、山が迫る狭い海岸に沿って集落が点在しているのが見渡せました。ちょうど昆布漁の最盛期で、波で打ち上げられた2㍍もある「拾い昆布」を集め、小石の敷き詰められた干場(かんば)で家族総出の天日乾燥の作業中でした。昆布漁は7月から9月までの短い漁期の中、晴れた日を見極めて、温まった小石の上で干し、タイミングを見計らって裏返しにします。

仕事が一段落した昆布漁師の方と干場の砂利に座り、選別など昆布作りの過程を教えてもらいました。夏は一日一日が真剣勝負だそうです。

栃木の昆布料理/昆布は日本海側の利尻産のものが上級とされ、北前船で関西方面、さらには沖縄にも回漕されました。いわゆる昆布ロードです。中継地富山の昆布消費量は日本一だそうです。毎日の料理に昆布が使われているそうです。昆布の多くは越前の敦賀から琵琶湖を通って京都に運ばれ、京料理には欠かせないものになりました。

それに比べ、関東地方で昆布が普及したのは、幕末になって太平洋に面する日高地方が開発され、東回り航路が確立してからです。「日高昆布」と言われるもので、下野一帯でも正月料理でニシンを昆布で包み、干瓢で巻く「こぶまき」が定番となり、八溝地域にも昆布文化が定着しました。厳しい自然条件の襟裳岬周辺で働く昆布漁師のお陰です。

アポイ岳登山を終えて襟裳(現えりも)町に戻ると、部活動帰りの高校生が元気に挨拶をしてくれました。「何もない」という先入観で訪ねた襟裳にも、歴史があり、人の営みがあることに気付き、いい「観光」が出来ました。

おでんの昆布を食べるたびに、真夏に襟裳で出会った人たちのことが思い浮かびます。

<干場(かんば)で昆布漁師さんと(右が私です)>
<干場(かんば)で昆布漁師さんと(右が私です)>

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