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中国・四国

2_09 土佐の二人の銅像

<安芸市:岩崎弥太郎像>

栃木県内にも勝道上人や足利尊氏などの銅像がありますが、なんと言っても数の多さでは高知県にはかないません。坂本龍馬だけでも20体以上あります。他にも中岡慎太郎や武市半平太の銅像がありますが、今回は心に残った二人の銅像を紹介します。

岩崎弥太郎像/安芸市の生家に隣接して立つ岩崎弥太郎像は、時代の風を正面から一身に受け止めるように右手を大きく開いて立っています。髭を蓄え、口を真一文字に結び、目を大きく見開いている容貌からは、妥協を許さないという峻厳さも見て取れます。幕末から明治の激動期を生きた人にふさわしい、大志を抱いているポーズです。気骨があり信念を曲げない土佐の「いごっそう」の典型でしょう。銅像の多い高知県でも異彩を放っています。小ぶりな茅葺きの生家が隣にあるだけに、銅像の大きさに違和感を覚えました。

南国の海に近いところで育った人たちは、概して激しくしかも野望家が多いのでしょう。中でも三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎の銅像からはそのことを実感しました。埼玉県深谷市の渋沢栄一の座像とは対照的で、生き方の違いがそのまま出ているように感じます。そういえば、日光の神橋脇の高台から日光市街を見下ろしている板垣退助も土佐の出身です。

中浜万次郎像/井伏鱒二の小説『ジョン万次郎漂流記』で知られている人です。足摺岬の高台に立っている像は遠くアメリカを望見しているのでしょう。貧しくて寺子屋にも行かなかった万次郎は、14歳で漁に出て遭難し、仲間とともに無人島に漂着します。アメリカの捕鯨船に救助され、利発さを見込まれ、一人だけアメリカ東部に渡りました。船長の世話で現地の学校に入学、アメリカの教育を始めて受けた日本人になり、英語はもちろん、数学や造船学、さらに民主主義の精神も肌で感じ取りました。

鎖国政策のためなかなか帰国できず、世界を2周することになり、結果としてより広い知見を持つことが出来ました。11年後にようやく帰国し、島津藩、さらに土佐藩にも新世界を紹介し、坂本龍馬にも影響を与えました。その後幕府に取り立てられ、日米修好条約批准のため福沢諭吉らとともに咸臨丸で再渡米し、英語を駆使して両国間を周旋しました。

維新後は政財界からの誘いにも乗らず、決しておごらず、教師としての生涯を終えます。同じ土佐人でも「いごっそう」では括れない人です。もし万次郎の存在がなければ日本の近代化が遅れ、方向も変わっていたでしょう。二人から日本の近代化の姿が見えてきます。

<土佐清水市足摺岬:中浜万次郎像>
<土佐清水市足摺岬:中浜万次郎像>

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