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中国・四国

2_08 和蝋燭(ろうそく)の町内子

<芳我屋本店:黄色い本壁になまこ壁と庇付きの窓>

道後温泉で坊ちゃんの湯で冬の温泉を楽しんだ後、予讃線で松山から内子に向かいました。予讃線は途中で海岸線を通る路線と内陸部の内子を通る路線に分かれます。内子を経由する支線に乗って和蝋燭の産地で、ノーベル賞作家大江健三郎の出身地を訪ねました。

内子の白蝋/内子は松山と大洲を結ぶ街道の宿場であり、八十八か所の遍路道にも当たり、古くから交通の要衝でした。平安時代に起源をもつ木蝋は、明治時代には全国の4割を生産する産地となりました。木蝋はハゼノキの実を圧搾して脂分を抽出して生成します。

町の中心地部に店舗を構える芳我(はが)屋本家は、分家14を出した蝋を扱った豪商です。本店は未公開ですが、第一の分家上芳我屋は資料館として公開されているので、木蝋製造の道具や、上質な内子独特の白蝋を精製する過程を学べました。明治中期が最盛期で、特に明るさに優れた白蝋の技術が進むと、内子の蝋は全国区になりました。

電灯の普及で、製蝋は衰退しましたが、今でも江戸時代からの和蝋燭屋が残っています。なお、芳我家は、宇都宮市氏が、鎌倉時代に伊予守護職になって四国に渡った際に同道した支族の芳賀一族で、主君宇都宮氏が豊臣秀吉によって突然の改易になったことにより、そのまま内子に土着、姓を芳我市に改めたという、宇都宮家臣団の子孫です。四国には祖母井(うばがい)氏、水沼氏、笠間氏など宇都宮の家臣団も伊予に土着し、姓としていますています。

内子劇場/蝋の生産が衰退した後、町役場や商工会が中心となって、製蝋と宿場の歴史を伝える街づくりに取り組みました。その結果、「重要伝統的建造物群保存地区」のほか、「日本の道100選」、「かおり風景100選」に選ばれました。

中でも、大正時代に、町の旦那衆が建てた歌舞伎劇場の内子座は国の重要文化財となり、現在も活用されています。姉妹都市のドイツルーテンベルグとの国際シンポジウムに使われているそうです。古いものを生かしながら、新しい取り組みをしている好例です。

担当の方に街づくりの苦労もお聞きしてきました。従来、観光バスで来て、2時間ほど滞在し、宿泊は松山の有名な温泉に移動、地元の経済波及が少ないこともあり、地域全体が街づくりに賛成ではなかったということです。これは日本の多くの場所での共通した悩みです。

内子では、農村の景観保存にも活動を広げ、グリーンツーリズムなどで「関係人口」の増加に取り組んでいくそうです。内子はトップランナーとして今後も街づくりのモデルになるはずです。人の少ない真冬の旅でしたので、街並みに身を置くだけで心が落ち着きましたし、地域の方々の町づくりの思いが伝わってきました。

大江健三郎の生家は町の中心からは離れていますが、文学の土壌を育んだのは内子の歴史に違いありません。

折角だからとお土産に買って鞄に押し込んでおいた和蝋燭は、帰宅して解包したら、溶けて原型がなくなっていました。

<本格的な歌舞伎舞台を持つ内子座>
<本格的な歌舞伎舞台を持つ内子座>

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