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中国・四国

2_05 満濃池と弘法大師

<満濃池:嵩上げで「池」でなく、ダム湖となった>

讃岐平野は四国山地と中国山地に挟まれ、降雨が少ないうえ、大きな川がないため、干ばつの起きやすい地域です。一方で「讃岐三白」の砂糖、塩、綿は瀬戸内地方の乾燥した気候によって生まれたものです。まんのう町と善通寺市を訪ね、讃岐平野の歴史を学びました。

讃岐平野の米作り/水不足を解消するため、讃岐には1万4千もの溜池があって、その中で一番大きな溜池は、弘法大師も関わったという「満濃池(まんのういけ)」です。

満濃池はすでに奈良時代に築堤されていたものの、しばしば破堤による洪水旱魃を繰り返していました。平安時代の821年、朝廷は、唐からの帰朝し、土木技術の知識もある空海を派遣し、築堤に当たらせました。地元出身の空海を慕った農民たちが集まり、3か月の短時間で工事を終えました。ただ、その後も何度か地震などで破堤を繰り返していました。

溜池はあっても雨量が少ない年には干上がってしまい、「犠牲田」として水を入れずに枯死させ、別の田に水を入れて全滅を防ぐ身を切るような心労を強いられました。

時計のなかった時代は、線香と立てて、火を点けて水を流し、燃え尽きると別の田に水を移すという「線香水」、さらに土瓶でわずかな水を掛けてまわる「土瓶水」もしたそうです。

戦後に満濃池は、周囲20キロの近代的なダム湖となり、3000haの圃場を潤しています。町名も「まんのう町」となり、池周辺には国営讃岐まんのう公園があり、先人たちの苦労が分かるように、池の変遷史の表示がありました。

さらに、昭和49年、徳島県の池田から吉野川の水を、8キロのトンネルを掘って通水した香川用水が完成、灌漑用水はもとより工業用水、上水道としても讃岐平野全体を潤しています。それでも、吉野川のダムの貯水量の少ない年には、今でも気を揉んでいるはずです。

善通寺/善通寺市内には四国88ケ所の札所が5ケ寺あり、いずれも弘法大師空海やその弟子が造立に関わる寺院です。中でも75番札所の善通寺は、空海誕生地に建立された寺で、唐から帰朝後に長安の寺を模して建立され、父親の佐伯善通の名から善通寺としました。京都東寺と紀州高野山とともに弘法大師三大霊場になっています。

その後、戦火や自然災害によって荒廃しましたが、その都度足利尊氏など時の権力者、江戸時代には高松藩や丸亀藩の支援で再建され、空海誕生の寺にふさわしいたたずまいを保っています。今でも金毘羅山と兼ねての参詣者も多く、門前町は賑わっています。      

門前でうどん店に入りましたが、太いうえ腰があり過ぎて、喉を通すのに苦労しました。

<善通寺大師堂:当日は法要が行われていた>
<善通寺大師堂:当日は法要が行われていた>

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