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中国四国

2_03 下野武将の活躍 那須与一と宇都宮氏

<与一の駒立岩:周囲は住宅地となり干潮時は干潟になる>

那須与一が讃岐(香川県)の屋島で扇の的を射当てる場面は、『平家物語』で広く知られ、栃木県の誇りです。さらに、隣の伊予(愛媛県)に行くと宇都宮姓が多く、西予市では一番多い姓だそうです。今回は四国で活躍した下野の人々の舞台を訪ねる旅です。

那須与一/源平合戦の緊迫する中、「今日は日暮れぬ。勝負決すべからず」と両軍が帰陣すると、沖に陣取っていた平家の方から、真っ赤な地に日輪を描いた扇を竿の先に挟んだ小船が近づきました。総大将義経は、射手に与一を選びました。この時与一は18歳です。断り切れず覚悟を決め、下野国の神々に祈願し、馬を海に乗り入れ見事扇の要を射切り、敵味方がとも拍手喝采をします。『平家物語』はここで終わりますが、『源平盛衰記』では、さらに細かく描かれ、座に興じて船上で舞を舞う平家の武将を、義経の命で与一は射殺してしまいます。このことには源氏方からも「情けない」という声が上がりました。義経は、武勇に優れても人情の機微を解さに人柄が平泉の悲劇につながるように思えます。

屋島の活躍の場面を含め、与一のことは、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に一切記載されていません。与一は20歳ほどで京都において亡くなったと伝えられています。与一は、出身地那珂川町小川にある御霊(ごりょう)神社に祀られています。御霊とは不遇で死んだ人の魂のことです。義経の死後、頼朝に疎まれて不遇のまま死んだのかも知れません。詳細は不明です。現在大田原市では「一祭り」行われていますが、大田原そのものは与一とは関係ありません。

屋島一帯は、江戸時代に高松藩において塩田開拓が大規模に行われ、昭和に入って塩田のによる製塩がが終わると住宅地となり、干潮時の駒立岩は平家物語の緊迫感が伝わってきません。

伊予宇都宮氏/愛媛県西部の西予市には宇都宮姓の人たち集住しています。博物館の案内係の女性も宇都宮さんで、宇都宮氏の出自を誇りにしていました。

鎌倉時代、宇都宮氏は恩賞により、伊予や豊前(大分)の守護職になり、宇都宮氏の一族が四国・九州に赴きました。伊予の大洲を本拠地とした宇都宮氏は、宇都宮二荒山神社を勧請するなど故地を大事にしながら、鎌倉から室町期の激動の時代を生き抜きました。しかし、戦国時代に毛利氏などに席巻され没落します。宇都宮や祖母井、芳賀(芳我)、玉生姓を名乗って土着したため、愛媛県には宇都宮姓の方が多く残りました。日弁連の元会長も四国宇都宮姓の方です。九州の宇都宮氏は戦国末期に黒田官兵衛(如水)により滅ぼさてしましたが、生き残りが九州に土着しました。

一方、本家筋の下野の宇都宮氏は、豊臣秀吉によって突然改易され、宇都宮を去ったため、家臣団は、自分の支配する地域名を姓とし土着しました。宇都宮氏は、その後大名に取り立てられることはありませんでした。

<藤堂高虎築城の大洲城:それ以前は宇都宮氏の治世の拠点>
<藤堂高虎築城の大洲城:それ以前は宇都宮氏の治世の拠点>

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